7.もの別れ

 三か月ぶりに会う母親の思い相手は、驚きながらもその堅苦しい顔を穏やかに和ませた。


「そんなに慌てて……。どうされました?」

「与平さん!」


 知った顔に出会えたこと、何よりそれが与平であったことで、張り詰めていた紫月の気持ちがぷつんと切れた。


 紫月は眉根を寄せて口を真一文字に結ぶと、その大きな瞳を涙で潤ませた。

 与平がぎょっと顔をひきつらせる。


「紫月さま?」

「もう帰る!」


 紫月は与平の胸にしがみついて顔を埋めた。与平は戸惑いながら彼女を受け止め、遅れてきた碧霧に「どういうことだ」と目で問いかける。


「父上との謁見でちょっと……。俺が送っていくから」

「与平さんと帰る!」

「紫月、わがまま言わないで」


 碧霧が与平から紫月を引き取ろうとすると、彼女はその手を振り払う仕草をした。


「わがままじゃないしっ。触るなって言ってるでしょ!」


 目の前で悶着を始める二人の様子を見て、与平が困った顔でため息をつく。そして彼は、必死に自分にしがみつく姫君に優しい声を落とした。


「儂もちょうど帰ろうとしていたところです。では、一緒にお帰りになられますか?」

「与平っ、俺が送るって──」

「ですから、あなたの宵臥よいぶしに手など出しません」


 何度も言わせるなとばかりに与平がぴしゃりと言って捨てる。そして与平は諭すような顔を碧霧に向けた。


「失礼ですが、落ち着いてお話ができる状況には見えません。今宵、姫は儂が送りましょう。明日以降、あらためてお話しされるがよろしいかと」


 碧霧がぐっと言葉を詰まらせ腹立たしげに顔をそむけた。それを了承の意と解した与平は碧霧に深々と一礼し、「参りましょう」と紫月とともに歩き始める。

 振り返ろうともしない紫月の後ろ姿を碧霧はただ黙って見送った。




 与平に連れられ、紫月は御座所おわすところを後にした。

 彼の空馬に乗せてもらい、空を飛ばずに地の道を西へ向かってゆっくりと歩く。華やかな打掛姿は目立つため、黒灰色の外套マントを着せてもらった。

 与平の広い腕の中は、碧霧のそれとは少し違う。彼から感じるのは、ただただ穏やかな安心感だ。


 思えば、こんな風に父親の成旺しげあきが馬に乗せてくれたことなどなかったなと、紫月はふと父親のことを思い出した。


 彼女の頭上で、耳障りのいい与平の低音が響く。


「長く滞在されましたね。沈海平しずみだいらはどうでした?」

「楽しかったわ。食べ物はおいしいし、服も可愛いし、」

「それは、ようございました」

「ほんと、こっちとは大違い。気候も穏やかで、住んでるあやかしも温かい、」

「……鬼伯との謁見で何かありましたか?」


 険のある姫君の口調をさらりとすくい上げ、与平が尋ねた。紫月は、「最悪よ」と笑い混じりに答えた。


「伯家のために歌って、体を差し出せばいいと、おまえの役目はそれだけだと、そう言われたわ」

「それは、酷うございますな。よく我慢されました」

「……与平さんは、母さまのことが好き?」


 突然、ぐるりと首をめぐらせて紫月が与平を見上げた。単刀直入な質問に与平は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに笑い返した。


「可愛らしい方だと存じております」

「母さまと出会う前に恋人は?」

「はは、今も昔もおりませんよ」

「でも、その……、恋人はいなくても関係になった女性はいたでしょ?」


 与平がつと片眉を上げる。紫月の言う「そういう関係」とはどういう関係を指すのかが曖昧だが、そこはなんとなく推し量る。ただ、彼女の質問の意図が分からない。


 自分と母親の関係を聞きたいわけでもなさそうだし、自分の過去を詮索したいわけでもなさそうだ。それで与平が困った顔で苦笑いを返すと、紫月はむすっと口を尖らせ俯いた。


「……葵がいろんな姫君と、そういう関係にあったのは知ってる? 鬼伯がたくさんの姫を摘まんでいたって。おまえもその一人に過ぎないのだから勘違いするなって、」


 彼女がぼそりと口にする。

 なるほど、さっきの二人の口論はこれが原因で、しょぼんと落ち込む姫君が聞きたいのはそこかと納得しつつ、さてどうしたものかと与平は思案した。


 なぜなら、かの伯子が数多あまたの姫君と浮き名を流していたのは事実だし、そんなに昔の話でもない。しかし、これをそのまま彼女に告げても、さらに落ち込むのは目に見えている。だからと言って嘘をつく訳にもいかない。


 与平は、「そうですね──」と言葉を選びつつ口を開いた。


「伯子というお立場上、多くの者と関わりが出てきます。中には自分の娘を使って伯家と繋がろうと思っている輩もおります。碧霧さまもそれは十分に分かっていらっしゃったので、どの姫君ともかなり割りきった関係だったと思いますよ。少なくとも、紫月さまに対してのそれとは全然違っていたかと」

「そういう話をしてるんじゃないの!」


 紫月が珍しく癇癪かんしゃくを起こす。そしてそのまま一人でふて腐れてしまった。

 与平はやれやれと心の中で白旗を上げた。これは、何を言っても怒られそうだ。


 二人を乗せた馬はゆっくりと宵闇を進む。一人でふて腐れている紫月は、ふと道が違うことに気がついた。


「与平さん、落山はこっちじゃないわ」

「はい。儂の家に寄ろうかと思いまして。儂の家は、西の家元屋敷が並ぶ端の端、里中近くにあります」

「与平さんの家に?」

「ええ、おそらくだと思われますので」


 紫月が怪訝な顔を返すと、与平が含みのある目を返しながら笑った。

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