8.思った以上にこじれてる

 それから碧霧は、帰るまでにやっておきたい事や、佐一の姉の処遇について千紫に相談していることなどを一気に紫月に説明して、忙しなく鎮守府へ戻っていった。


 紫月は屋上まで彼を見送った。空馬に乗った碧霧はあっという間に小さくなって空に溶けていく。彼女はその後ろ姿をいつまでも眺めていた。


 今日ばかりは一緒にいて欲しかったな。


 ふと、そんなことを思う。突然の帰還命令に、動揺しているのだと自覚する。

 しかし、もう十日しかない。月夜の里へ帰るのだって風を利用したとしても半日以上はかかる。となると、沈海平しずみだいらに滞在できるのは実質九日だ。

 沈海平で碧霧がやろうと思い描いていたことを考えれば、わがままを言って彼を引き止めることなんてできない。きっと戻っても仕事をするのだろう。


 どんなに頑張っても空に碧霧の姿を見いだすことはできなくなった。紫月はようやく部屋に戻ることにした。


 部屋に戻ると、ちょうど妃那古が紫月の様子を見にきていた。香古が大泣きして、岩城はちょっとした騒ぎになっていたらしい。


「急に月夜の里に帰ることになったと聞いて……」

「うん、ごめんね。妃那古にもいっぱいお世話になっちゃった」


 妃那古が「そんなこと、」と小さくかぶりを振る。


「それで、最後にささやかですけど宴を開いたらどうかって話になって」

「いいのよ、そんな気を遣わなくても。でも、葵は喜ぶと思うわ」

「良かった! では沈海平を発つ前日の夜に。あ、もちろん碧霧さまは泊まっていきますよね。碧霧さまに確認しておいてくれますか?」


 矢継ぎ早に尋ねられ、紫月は思わず頷き返した。しかし、はっと顔を青くして妃那古にすがるような目を向けた。


「泊まるって、私の部屋に泊まるってこと?」

「それは、他の部屋じゃおかしいでしょう?」

「そんな……ああ、だめよ。ねえ、妃那古から泊まるかどうか彼に聞いてくれない?」

「どうして?」

「だって、泊まるのかって私が聞いたら、私が泊まるのかって聞いてるみたいじゃない!」


 訳の分からないことを言って、紫月は困った様子で頭を抱えた。妃那古が訝しげに眉根を寄せて紫月を見た。


「なんの話ですか? 喧嘩でもしました?」

「違うの……。実は私、宵臥よいぶしのお務めをまだ果たしてなくて。宵臥を逃げ出したこと、勇比呂に雑談程度に話したことがあるんだけど、聞いてない?」

「……え?」


 妃那古がきょとんと言葉に詰まる。ややして、


「ええっー?!」


 彼女はすっとんきょうな声を上げた。紫月は慌てて彼女の口を押さえた。


「しぃっ! みんなに聞こえちゃうじゃないの!」

「この三か月、一度もお泊まりになろうとしないし、おかしいなとは思っていたんですよ! まさかそんな事情だったとは──」

「だから、声が大きいって! て言うか、そんなこと思ってたの?!」


 たじろぎながら突っ込む紫月の言葉を妃那古はもう聞いていない。彼女は腕を組んで拳を口に当てながらぶつぶつと呟いた。


「なるほど。では私から宿泊をお聞きしても、別の部屋をお願いされそうですね……言わせませんけど。だったらこの際、この霞郷かすみのごうできっちり碧霧さまのものになればいいんだわ!」

「や、何を勝手に……」

「そもそも紫月さんは、どう思っているんですか?」

「どうって──」


 また答えにくいことをズバリと聞いてくる。

 紫月が困惑ぎみに口ごもると、妃那古はずいっと紫月に詰め寄った。


「嫌なんですか?」

「それは……嫌じゃないけど、」

「けど?」

「はい。嫌じゃないです」


 妃那古の圧に押し負ける形で紫月は認める。妃那古がにっこり笑った。


「だったら何の問題もないですね」

「大ありよ! いろいろ気まずいというか、恥ずかしいじゃない! 以前ちょっと拒否る態度を取ったら、それ以来めちゃくちゃ顔色を伺ってくるようになったし、」


 しかし、やっぱり妃那古は聞いていない。彼女は「楽しみ~」と笑うと、戸惑う紫月を残して足取りも軽やかに出ていった。




 それからの九日はあっという間に過ぎた。

 紫月は染井川や麦畑で月詞つきことを連日歌い続けた。今年の麦はきっと豊かに実ってくれるだろう。


 一方、碧霧は軌道に乗った赤鉄の販売について、後始末に追われていた。

 まずは、売上金の一部を鎮守府の収入とすることと決めた。上納率は売り上げの半分、率としては高めだ。しかし、これで水天屋の主人がかつて納めていた金額を賄うことができるし、何より裏金ではない正当な収入となる。もともと赤鉄で儲けるつもりがなかった真比呂たちはあっさり了解した。

 むしろ、甘い汁を飲めなくなった小梶平八郎の方が悔しそうな顔をしていたくらいだ。


 また、この上納金については佐一に全てを任せることとし、府官長とは別に佐一自身から報告を月夜に上げることとした。数字を誤魔化せないよう平八郎に釘を刺した形である。


 さらに、佐一には疲弊した土地を元気にするべく管理役も申しつけた。紫月にしか歌えない月詞にいつまでも頼りきりという訳にもいかない。誰でもできることをいろいろ試す時期である。


 その日も真比呂との打ち合わせで霞郷を訪れていた碧霧は、帰りに廊下で妃那古に呼び止められた。


「碧霧さま、別れの宴のことなのですが……」

「うん、聞いているよ。気を遣ってくれてありがとう。楽しみにしている」

「ありがとうございます。もちろん、その日は紫月さんのお部屋にお泊まりですよね?」


 もちろんと言われ、碧霧はうっと言葉に詰まる。碧霧は動揺を悟られないよう笑いながら、やんわりと妃那古に尋ねた。


「紫月はなんて言っている?」

「紫月さんは碧霧さまの都合は分からないので直接本人に聞いて欲しいと。でも、せっかくですし。もちろん、紫月さんのお部屋に泊まるだけですから、こちらもなんの用意もいたしませんし、遠慮は無用です」


 なるほど、そうきたか。

 無意識なのかわざとなのか、「もちろん」を二回も言われた。部屋を別に用意して欲しいとは言えない状況である。

 碧霧はしばし思案し、それから口を開いた。


「帰るまで慌ただしい日程だから当日でないと分からないな。紫月の部屋に泊まるだけだから、そのまま泊まっても泊まらなくても大丈夫だろう?」

「そ、そうですね」

「じゃあ、そういうことで」


 当たり障りのない笑顔で答え、碧霧はさらりと去って行く。内心、大きく息をついていることを誰も知らない。

 そして、彼の姿が見えなくなってから、今度は紫月が物陰からひょっこり顔を出した。彼女は誰もいなくなった廊下の向こうを見つめながら情けない声をした。


「ほら、誤魔化した! きっと泊まりたくないのよ」

「何を紫月さんらしくない弱気なことを。これは、思った以上にこじれてますね。お部屋に仕掛けをしなければ!」

「な、何をするつもり?」

「大したことではありません。ちょっとしたメッセージを置くんです」


 言って妃那古はにっこり笑った。

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