7.碧霧の助言

 碧霧が紫月の部屋を訪ねると、ちょうど勇比呂親子が遊びに来ているところだった。

 部屋中央の小さな丸テーブルに果実茶が三つ並んでいた。そして、香古こうこが紫月の膝の上に乗り、大声で歌を披露している。向かい側には父親の勇比呂。どうやら紫月の真似をしているらしい。


 碧霧は香古が歌い終わるのを見計らって、入り口の衝立ついたてから顔を覗かせて、紫月に声をかけた。

「紫月、」


 三人がくるりと入り口に顔を向け碧霧の姿を認める。刹那、香古が紫月の膝の上からぱっと飛び降りて碧霧の元へ駆け寄った。


「伯子さま!」

「素敵な歌だ。香古も上手に歌えるね」


 碧霧はしゃがんで香古を受け止めると、一番に笑顔で褒めた。香古がぱあっと両頬を染め、嬉しそうに背中の翼をパタパタさせる。


「うん! 香古は、しづ姉々ねえねみたいに歌えるようになるの!」

「そっか、それは楽しみだな」


 そんな香古に続き、紫月が「どうしたの?」と彼を出迎えた。 


「連日やって来るなんて珍しいわね。何か急用?」

「ああ、大したことじゃないんだけど……」


 香古の手前、あまり大袈裟な話にはしたくない。碧霧はあえて普段と変わらない口調で答えた。


「父上からそろそろ戻って来いと連絡があって」

「鬼伯から?」


 しかし、「鬼伯から」という言葉だけで紫月の表情が強張る。隣では勇比呂もすっと真顔になり、香古だけがきょとんとした顔をした。


「伯子さまのとと、寂しくなったのかな?」

「さあ、それはどうかな。分からないけど……」


 可愛らしい質問に曖昧に答え、碧霧は含みのある目で紫月を見る。そして、目の前の無邪気な顔の子天狗に正直に告げた。


「実は、紫月も俺と一緒に帰ることになる。香古、それでもいい?」

「しづ姉々ねえねも帰っちゃうの?」


 ようやく事態の重さに気づいた香古がみるみる顔を曇らせる。そして、助けを求めるように父親を仰ぎ見た。


とと、帰っちゃうって」

「そうだな。長くいすぎた」


 言って勇比呂が愛娘をひょいと抱き上げた。


「さあ香古、何かおやつを食べに行こう。紫月は伯子と大切な話があるようだ」

「でも、帰っちゃう!」

「今すぐ帰るわけじゃない。今日の夕飯は一緒に食べられるさ。それで伯子、いつだ?」

「……十日後だ」


 碧霧の言葉を受けて、勇比呂がにこりと笑う。


「ほら、まだ十日もいる」

「香古やだ!」

「そうだ、別れの宴を開くってのはどうだ? 香古」

「やだやだ!」

「そこで香古は歌えばいい。きっとみんな喜ぶ」


 娘とちぐはぐな会話をしながら勇比呂が二人に目配せをしつつ部屋を出ていく。どうやら気を遣ってくれたらしい。

 親子二人の声が部屋からどんどん遠くなっていく。しかしややして、香古の大きな泣き声が聞こえてきた。


「悪いことしちゃったな」


 碧霧が困った顔でため息をついた。

 隠していてもどうにもならないことだから伝えたわけだが、ちょっと突然すぎたかもしれない。

 そんな彼に紫月が優しく笑いかける。


「今伝えなくても、夜には伝えなきゃいけなかったから同じよ。私からも香古に謝っておくから」

「ありがとう」


 そして碧霧は、紫月に誘われる形でベッドの端に腰かけた。二人で話をする時は、テーブルよりもこちらに座ることの方が多い。そして大抵の場合、碧霧の膝の上に紫月が座る。

 彼はいつものように紫月を膝の上に乗せ、彼女の豊かな黒髪を撫でながらあらためて告げた。


「父上からの帰還命令だ。紫月も一緒に連れて来いと言われている」


 彼女が緊張した面持ちでこくりと頷く。すぐさま碧霧が「大丈夫」と頭の角に口づけた。


「紫月には何もさせない」

「でも、あなたと鬼伯が険悪になるわ」

「もともと険悪なんだから今更だ」


 そして今度は彼女の頬に口づけを落とす。それからそのまま首筋へ。この三か月で二人はずいぶんと親密になった。

 もともと彼女は宵臥よいぶしなのだから、もっと親密であってもいいのだけれど。宵臥を逃げ出しただけあって、そこはやっぱり守りが堅い。


 和平交渉の日、勢いで紫月を押し倒した。その時は左近に邪魔をされて、それ以上は中断してしまった訳だが、紫月が怒った訳でもなく、碧霧は「次の機会に」ぐらいに軽く考えていた。

 しかし、その日からしばらく彼女はそういう雰囲気をあからさまに避けるようになった。怒ってはいないが、無言の拒否宣言だ。

 それからと言うもの、こうして部屋の中に入れてもらえるまで数週間、膝の上に乗ってもらうまで一か月半ほどを要したのだ。


 おかげであの夏に着ていた背中が全開の大胆な服も、首の後ろの結び目をほどけずじまいで終わってしまった。

 今まで姫君に言い寄れば、すぐさま了解がもらえていただけに、碧霧にとってはじりじりと耐える三か月だった。


 それでも、じっくり攻略した甲斐あってか、今はこうして好きに触れさせてくれる。内心では、もういつでもいいんじゃないかと思いもするが、そこは確認を取らないとちょっと怖い。これで機嫌を損ねたら、次はきっとない。

 それに今日は、大切な話をしないといけない。


 碧霧はひとしきり彼女の唇や肌に口づけを落とすと、ようやく彼女の顔を両手で包んだ。


「帰ったら、おそらく父上に謁見えっけんすることになる。父上と言えど、公の場で理由なく紫月を拘束したり傷つけたりはできないから、そこは安心して」

「分かったわ」

「ただし、」


 と碧霧が付け加える。


「一つだけ。父上は口答えが大嫌いだ。特に女の口答え。あの母上でさえ、公の場では余程のことがない限り発言を控えている」

「ずいぶん……横暴なのね」

「噂程度でも耳に入っているだろう? かなり横暴だ」

「葵は誰に似たの?」


 茶化した口調で紫月が尋ねると、碧霧は「さあ?」と肩をすくめた。そして、人差し指を彼女の唇に押し当てて、声の調子を低くする。


「とにかく、余計なことは話さず、そして逆らわず。ただ聞かれたことに答えればいい」


 まるで、まじないのような彼の言葉が紫月の耳たぶを打った。

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