6.帰る前の後始末

 その日の夜は、月夜の里に式神を飛ばした後は何事もなく終わった。

 明日の朝には月夜からの返事が届く。「半月後に帰る」と投げかけてあるが、きっと「十日で帰って来い」というのが碧霧の見立てだった。


 それぞれが部屋に下がってからも碧霧は執務室で水天屋の帳簿とにらめっこしていた。ここ数年で水天屋から巻き上げた資金はこちらの金で五千貫ほど。三分の一が府官長の取り分だとしても、三千貫以上が月夜に流れていたことになる。


「鬼兵団が雇えるな」


 思わず独りごちる。着ている衣服の値段は分からなくても、兵団の維持費用には詳しい碧霧である。

 と、廊下で左近の声がした。


「碧霧さま、」


 碧霧が戸口を見やると、堅い表情をした左近が戸口で小さく一礼した。そして彼は、碧霧の表情から入室の許可を確認し、彼の席近くに歩み寄った。


「夜分遅く申し訳ありません」

「どうした?」


 碧霧が小首を傾げて左近を促した。左近は、躊躇ためらいがちに視線をあちこちに泳がせていたが、ややして彼は意を決したように口を開いた。


「加野を──月夜へ同行させてはもらえないかと」


 碧霧は少し驚いた顔で左近を見返す。「薄っぺらい同情など彼女は期待していない」と加野の身の上を心配する碧霧を切って捨てたのは他ならない左近だからだ。

 左近がきまりの悪い顔をした。


「……俺も薄っぺらい同情心からです。ここに来て数か月、多少なりと情が移りました」

「彼女と話は?」

六洞りくどう家に侍女見習いとして来たらどうかと提案したのですが、迷惑がかかると言われてしまい」

「うん。平八郎は次洞じとう佐之助とつながりがあるだろうからな」


 佐之助は父旺知あきともの片腕である。そして六洞家とはあまり仲が良くない。

 六洞家は三百年前から続く家柄で、元伯家の覚えもめでたい家だった。月夜の変で当時の伯家を見限り旺知に下ったのは、無駄な混乱を避けるためだけのことで、屈したわけでは決してないのだ。


 おまけに、左右の兄妹は何かと反抗的な伯子の守役であり、重丸自身が武の師範でもある。表だって対立はしていないが、六洞家は事実上の伯子派だ。


 まがいなりにも平八郎の養女という立場である以上、加野が六洞家へ侍女見習いとして入るのは不自然だ。六洞夫妻が難色を示す可能性は多いにある。


「奥院の御用使ごようつかい(下女)あたりはどうだろう? 俺が連れて帰ってきたとなると何かと軋轢あつれきが生じそうだけど……」

「可能であれば。今日も我らの留守を狙って平八郎が加野に会いに来てまして、さすがに置いていくのは心配です」

「そうか……」

「申し訳ありません。鬼伯から帰還命令が出て慌ただしいところに」

「いや、いい。加野のことは俺も心配だったから。このことは、どうにかならないか母上に相談する。佐一の意向も聞きたい。悪いけど、呼んできてもらえるか」


 碧霧は再び佐一を呼び出し、彼を交えて加野の処遇を話し合う。佐一は姉を碧霧たちに預けることをすんなり快諾してくれた。弟なりにどうにもならない思いを持ち続けていたらしい。

 そしてその後、碧霧は夜中ではあったが月夜に向けてもう一つ式神を飛ばした。




 次の日、再び霞郷かすみのごうを訪れた碧霧を真比呂が「どうした?」と訝しげな様子で出迎えた。


 最初の頃こそ毎日のように様子を見に来ていた碧霧だったが、ここ最近は週に一度くらいの頻度になっていた。

 あまり霞郷に入り浸り過ぎては、鎮守府を蔑ろにしていると不満が出てくる。そういう声を抑えるためだ。


「急いで伝えたいことが出てきた」

「なんだ?」


 いよいよ眉を潜める真比呂に碧霧は真面目な顔で頷き返した。


 ちょうど昼食も終わった昼下がり、がらんとした食堂に案内され、適当に空いた席に座る。と、真比呂が調理場からもらってきた果実茶を碧霧に差し出し、向かい合って座った。


「あまりいい話じゃないな」

「……父親からの帰還命令だ」


 碧霧は簡潔に答えた。真比呂がはっと息を飲み、それから、おもむろに人差し指でこめかみを押さえて思案顔になる。


「まあ、いつかはと思ってたがな。伯子のくせに、おまえ好き勝手しすぎだろう?」

「そこは、感謝されてしかるべきだと思っていたんだけど?」

「もちろん感謝はしてるさ」


 真比呂が笑った。しかし、その笑顔もすぐ真顔に戻った。


「赤鉄の商売は軌道に乗ったし、染井川もみるみる綺麗になった。北から流れて来る水も、最近はかなり綺麗になっているから、後はこちらでなんとかできると思う」

「うん。そこはあまり心配していない。それよりも──」

「?」

「赤鉄の売上金の上納についてだ。きっちり率を決めていこうと考えている。あと、他の税と同じように正規の収入として上げる」


 碧霧が答えると、真比呂が難しい顔をした。


「言われた額を納める。赤鉄で儲ける気なんてもともとなかったんだからな。納めた後の金がどうなるかも、こちらとしては興味はない。そこを争うつもりはない」

「だとしてもだ。もともと水天屋の上納金の流れ自体が不明瞭だったんだ。おまえたちがきっちり納めてくれると言うのなら、こちらもきっちり月夜の里の収入とする」

「……裏金の流れを断つってわけか。父親が絡んでいるなら揉めないか」

「最初から揉めてる。今更だ」


 碧霧の強い口調に圧される形で真比呂が黙り込む。何か言いたげな表情でひとしきり逡巡していたが、彼はぱっと吹っ切れた顔になった。


「分かった。俺たち水天狗は、おまえを信じると決めたからな。俺たちは取り決められたように納めるだけだ。好きにしろ」

「そう言ってくれると助かる」

「で、いつまでいれそうなんだ?」

「昨日、半月後に帰ると返して、今朝の式神で十日で帰って来いと戻ってきた。紫月も一緒に連れて来いと言われている」

「わざわざご指名か」

「ああ。沈海平で大声で歌っている姫を見てみたいんだろう。今から紫月にも話をしてくるよ」


 真比呂に余計な心配はさせたくなくて、碧霧は冗談めかして答えた。そして、話を切り上げるべく立ち上がった。

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