3.薄っぺらい同情(その二)

 平八郎が目を忙しなくあちこちに泳がせ、怯んだ様子で左近に言った。


「先ほど奈原に出かけたと……」

「それは右近だ」


 素気なく答え、左近は加野を見た。


「加野、お茶を執務室へ持ってきてくれるか。少し休みたい」

「はい」


 加野が静かに頭を下げて廊下の奥へと消える。それを見届けてから、左近は平八郎をじろりと見た。


「それで? 府官長殿は何用か?」

「いや、養女むすめの様子を見に……。ちゃんと役に立っているか、こやつは要領が悪く……」

「加野はよくやってくれている。碧霧さまも全幅の信頼を置いているし、心配には及ばん」

「まあ、それなら良いのですが……」


 平八郎は歯切れ悪く言いながら左近をめ上げる。しかし、それ以上は何も言うことなく、苦虫を噛み潰したような顔をして去って行った。


「ふん、」


 左近は、平八郎の背中に向かって鼻を鳴らすと、すぐさま土間に向かう。

 土間では、加野が感情の抜け落ちた顔でぼんやりと立っていた。彼女の目の前で、沸騰したヤカンから湯気がしゅうしゅうと吹き出していた。


「加野、」


 左近が声をかけると加野はびくりと体を震わせ振り返った。


「あ、あのっ。すみません! 私、ぼうっとしてしまって、今すぐ持ってまいります!」

「いや、いい。俺が淹れよう」 


 左近は加野から急須を取り上げると、手際よく茶葉を入れて湯を注いだ。緑茶の爽やかな香りがくゆりと漂った。

 加野が苦笑した。


「本当なら、私など必要もないのでしょうね」

「そんなことはない」

「……みっともないところをお見せしました。申し訳ございません」


 伏し目がちにして謝る加野に、左近は黙って緑茶の入った湯飲みを差し出した。それを受け取る彼女の手は、華奢ではあるが荒れている。働く女の立派な手だ。

 左近は加野に淡々とした口調で言った。


「俺は、おまえにお茶を頼みたかっただけだ。何も見ていないし、聞いてもいない」


 ことさら驚くことでもない。似たような話はどこにでもある。弱い女が虐げられるのは世の常で、立場の弱い一つ鬼ならなおさらだ。


 ただ、それを目の当たりにして「よくあることだ」と流せるほど左近も図太い神経は持ち合わせていなかった。三か月、寝食を共にして彼女に情が移ったとも言える。こうして土間でお茶を飲み合うことも今ではしばしばだ。


「鎮守府を出る気は?」


 あるじに「薄っぺらい同情など」と諭したはずなのに、左近は似たようなことを口にした。

 いつかは自分たちも鎮守府を去る。留守を狙ってちょっかいを出してくるようでは、残された後は更に思いやられた。


 しかし案の定、加野に困った顔をされ、左近は心の中で自嘲する。

 これでは主と同じになってしまう。というわけで、もう少し具体的な案を提示してみた。


六洞りくどう家で侍女見習いをしたらいい。俺たち兄妹きょうだいを見て分かるとおり、両親は二つと一つだ。角の数の違いで無下に扱うことはない」


 左近と右近の両親は、父親が二つ鬼、母親が一つ鬼という珍しい組み合わせである。その二人から生まれたので、左近の頭の角は一つで右近は二つだ。

 実力主義の六洞りくどう衆にあって、角の数が違う兄妹は六洞重丸の自慢でもあるのだ。


 加野が嬉しそうに、しかし、諦めきった顔で笑った。


「ありがとうございます。ですが、すでに小梶という姓からお気づきのとおり、小梶平八郎は次洞じとう佐之助さまと懇意にしております。仮にも養女である私が六洞家のご厄介となれば、迷惑がかかりましょう」


 「小梶」という姓は、次洞佐之助の元姓である。そして、次洞家と六洞家はあまり仲が良くない。そのことを知った上での言葉だ。とっさに言い返せない左近に加野は言葉を続けた。


「私がここで養父の相手をすることで、多少は役に立っております。佐一の知らぬ事を養父から聞きつけたこともありますから」


 それは、いつどこで、どのように?

 その答えは聞きたくもなかったので、左近は問うこと自体をやめた。


「役に──、役に立つことと犠牲になることは違う」


 辛うじて、左近は言い返す。そうだ、これは決して「役に立った」などと言っていいものではない。

 口にすると、なぜだか熱いものが込み上げてきた。


「もう少し自分のことを考えろ。少なくとも、今の生活にほっとしているはずだろう? だとしたら、それがおまえの本当の気持ちだ。そもそも養女など、ただの口約束ではないか」


 阿の国に人の国で言う戸籍などというものはない。当然、昔ながらの決まりはあっても不文律な物が多く、時勢により変わることもしばしばだ。


「もともとあやかしは家族という縛りも薄い。こだわっているのは、一部の特権階級だけだ。そんなものに囚われる必要はない」


 しかし、ふと左近は別の可能性があることに気がついた。まさかと思いつつも、確認しないわけにもいかないので、その可能性をおずおずと口にする。


「加野が、その──、六洞家ではなく碧霧さまのお側近くがいいというのであれば、俺から碧霧さまに話をしてみるが」


 伯子の人当たりの良さは一級品なので、奥院でも心密かに慕っている女は多い。例に漏れず、加野もそうなった可能性は大きい。

 若き主が一つ鬼の姫に熱を上げているのは、ここ鎮守府でも周知の事実で、確かに今の状況で主の側に侍るとなると、ちょっと、かなり難しいかもしれないが、事情を話せばなんとかなるかもしれない。なんせ、我が主は情に厚い。


 すると、加野が苦笑した。


「紫月さまがいらっしゃるのに、そういうお話は碧霧さまにも、紫月さまにも、そして私にも失礼ではないですか?」


 優しい口調で手厳しく指摘され、左近はぐっと言葉に詰まる。


 結局、自分も薄っぺらい話しかできなかったな。


 最後はいろいろと体裁が悪くなって、左近はなんとも言えない顔でお茶をすすった。

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