第2話 父と子(沈海平反乱編後半)

1)それぞれの夜、それぞれの朝

1.伯子ではなく碧霧で

 北の領南部に広がる古閑森こがのもり、別名「入り口の森」と呼ばれるその森に三段峡という滝壺がある。幅広の大小三つの滝からなるそこは、平な川原もあって森で休むにはちょうどいい場所だ。


 独特の抑揚をつけた澄んだ声が、大きな飛沫しぶきを上げて流れる川音と混じり合い、光の粒となって弾みながら辺りに響く。


 紫月の様子を見に来た真比呂と妃那古は、その優しく軽やかな歌声に足を止めた。


「今日はいつもより声に艶があるな」

「だって碧霧さまが一緒だもの」


 不思議がる真比呂に妃那古が即答する。真比呂がすぐさま呆れた様子で肩をすくめ、妃那古はくすくすと笑った。

  

 碧霧と紫月が沈海平しずみだいらに来て、三か月が経った。

 ここ古閑森こがのもりは常緑樹が多く、いつでも緑に覆われている。それでも、所々に生えている赤や黄色の落葉樹が、冷たさを帯び始めた森に冬の到来を告げていた。


 三段の滝が良く見える岩の上、紫月は碧霧に後ろから抱っこされるような形で座り、滝の音に合わせて言葉を紡ぐ。傍らには真っ白な狛犬が寝そべっている。


 紫月が着ている鮮やかな藍色に水紋を施した衣服は、妃那古が用意してくれたものだ。形は小袖だが、従来の小袖より袖が細く裾がふわりとしていて、洋服のワンピースのようだ。これに白と銀の蔓草柄の帯をして、珊瑚色の組み紐で飾る。袖が邪魔にならず、何より可愛いので紫月は気に入っていた。

 碧霧は、首の後ろの結び目をほどけなくなったと、不満たらたらではあるけれど。


 そういう彼はというと、ちゃんとした小袖袴の姿を見たのは例の和平交渉の時だけで、後は黒の武装束が動きやすいとそればかり着ていた。

 そして今日は、奈原の里で見つけたエンジ色の作務衣さむえの上下に黒茶の羽織をざっくりと着ている。ちょっと今風な若者だ。

 ここ数か月、碧霧はこういうくだけた格好ばかりするようになっていた。格好いいからなんでも似合うと紫月は密かに思っている。


 ふいに川面がちゃぷんと波打ち、頭上に皿を乗せた河童たちがひょっこり顔を出した。彼らは、つぶらな黒い瞳をきらきらさせながら碧霧たちの元へすいっと寄ってきた。


「アオさま、いっぱい取れたです」

「うらも、たくさんです」


 たどたどしい言葉で話しながら、水掻きのついた草色の手を碧霧に向かって広げる。手の平に赤茶色の土のような物がこんもり乗っていた。川底に溜まった赤鉄だ。


「悪いな、面倒な作業をさせて。水の中の作業はさすがに早い」


 満足げに目を細め、碧霧が河童たちにお礼を言うと、河童たちはくちばしのついた愛嬌のある顔をにへっと和ませた。


「アオさま、いっぱい褒めてくれるです」

「ヒメさまも、いっぱい歌ってくれるです」

「それに、川がたくさん綺麗になるです」

 

 染井川の川底に沈む赤鉄を取り除く作業を、碧霧は河童に頼むことを当初から考えていた。しかし、綺麗な水を好む河童たちは今の染井川にあまり住んでいない。

 そこで、碧霧は自ら月夜の里に戻って、北の遠峰に住む河童たちを連れてきた。河童は土着意識が強いので、連れて来るだけでも一苦労だった。


 それなのに、着いたら今度は元々そこに住んでいた数少ない河童たちと喧嘩を始めてしまった。土着意識が強いということは、縄張り意識も強い。両者を説得するのに、真比呂たち水天狗も巻き込んでほとほと労力を使った。


 今日も河童たちは赤鉄の取れた量を互いに張り合っている。


「うらは北の河童だです。こんだけ取れた!」

「うらは、こんだけでだす!! えーと、みみ……みな、みない!」

「うーん……。それは、たぶん南ね」


 やんわりと紫月が「みない」を「南」に訂正すると、「だす!」と河童は元気良く頷いた。そして、どちらが多く赤鉄を取ったかの判定を求めてくる。


 紫月は困った顔で碧霧と顔を見合わせた後、にっこり笑った。


「今日引き分けね」


 染井川の赤鉄を取り除く作業を本格的に始めてからずっとが続いている。たぶんこれからも引き分けが続く予定である。

 碧霧は、この誤魔化しがいつまで通用するかなと内心ひやひやしていた。ばれる前になんとか仲良くさせないといけない。


 河童が川に戻って再び赤鉄を集め始めた。二人がその姿を見守っているところへ、背後から妃那古の声がした。


「碧霧さま、紫月さん、お昼を持ってきました。みんなで食べませんか?」


 振り返ると、包みを持った真比呂と妃那古が並んで立っている。


「わあ、ありがとう。葵、お昼にしよう」

「うん、そうだな」


 紫月が碧霧の膝から立ち上がり、碧霧がそれに続く。それから四人は川原の適当な場所に輪になって腰を下ろした。

 真比呂が「ほら、」と紫月に包みを渡した。


「ただの握り飯だがな」

「それが美味しいのよ」


 包みを受け取った紫月がそそくさと中を開ける。中から妃那古特製のおにぎりが顔を出した。

 紫月が「さあ、食べましょ」と促すと、皆がそれぞれ一つずつ握り飯を摘まんだ。


「ねえ妃那古、午後から奈原に買い物に行かない? この服、着やすいし可愛いからもう一着ほど欲しいなあ」

「いいですよ。碧霧さまも行きますか?」

「碧霧は駄目だ。月夜の里から宗比呂伯父が戻ってくる。一緒に話を聞いてもらう」

「そうか。ちょうどいいな。宗比呂おうには俺も相談したいことがあった」


 それぞれが言いたい事を口に出す。


 真比呂たち水天狗とは、あくまでも対等な関係だ。左右の守役や府官長は、碧霧を呼び捨てにする真比呂たちに眉をひそめたが、碧霧が「良し」とした。


 意味のない上下関係は互いの意見を硬直化させる。

 父親とそれを取り巻く洞家の鬼たちを見ていて碧霧が痛感していることだ。


 何より月夜の里から遠く離れた沈海平ここは、御座所おわすところのしがらみもなく、伯子という立場もあまり関係ない。

 碧霧は今、紫月とともに自由というものを満喫していた。

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