直孝翁の物思い
誰も訪れることのない苔むした庵は、今日もひっそりとしている。
静かな縁側に一人
先日、水天狗の宗比呂が突然やって来た。実に、なん十年ぶりの再会である。
どうしてここが分かったのかと尋ねると、「月夜の伯子に教えてもらった」とすぐさま返ってきた。
そして、この月夜の里にやって来た理由も話してくれた。なんでも伯子の提案で、火トカゲを燃料として里中で売っているらしい。今日は、その商談のために月夜の里に来ただけで、ここを訪れたのはそのついでだと説明された。
「あの赤鉄が金に変わるんだ。誰も思いつかなった」
興奮気味に話す宗比呂の顔が今でも浮かぶ。伯子のことも、「真っ直ぐで信念を持った、それでいて機知に富んだ青年だった」と笑っていた。
しかし、最も驚いたことは、伯子が伴って連れてきた不思議な歌姫の話だ。紫月という名の姫は、その美声で
まさか。と、直孝は驚きを隠せなかった。
なぜなら、まともな
代々、秀でた歌い手を輩出してきた元伯家には、二人の姫が生き残っている。しかし、末姫の藤花は人の国の九尾の谷へ嫁ぐことが決まっていて、東の端で幽閉状態であり、当然ながら誰かと子をもうけることなど出来ない。
一方、姉の深芳は、後妻の連れ子で元伯家の血筋ではなく、月詞を歌えない。彼女は政変後、旺知の兄の
いろいろ疑問が湧き起こり、その歌姫の素性を宗比呂に尋ねても、
しかし、そんなことはどうでも良くなるほど、直孝は歓喜で体が震えた。
(そうだ、問題はそこではない)
あの男の予言どおりだったと、彼は思った。
頭に角のない鬼の男が彼の元へと突然やって来たのは、数十年前。
その頃の直孝は、水天狗たちと毎日のように土と格闘する日々を送っていた。
何も手だてを考えない月夜の里の鬼たちに憤りを感じつつ、しかし、こちらの言い分をまともに聞いてもらえない以上、自分たちでどうにかするしかない。
家財は全て使い果たした。それでも、元
彼には、年齢が百以上違う若く気立ての優しい一つ鬼の妻がいた。滅多に子を成さないあやかしであるが、娘と息子、二人の子宝に恵まれた。
生活は決して楽ではなく、貧しい思いをさせていた。しかし、そこには間違いなく慎ましやかな幸せがあった。
ちょうどその時分、西の鎮守府に二つ鬼の小梶平八郎が赴任してきた。この二つ鬼は好色で知られ、特に一つ鬼をいたぶるのが好きな低俗な男だった。そこにあるのは、一つ鬼に対する憧憬にも似た憎悪であり、卑下する気持ちである。
それでも直孝は、沈海平のため平八郎に夫婦二人で頭を下げて必要な金や物を借り受けた。いつか必ず返すと、あてのない約束をして。
しばらくすると、二人で来る必要はないと言われ、妻が一人で鎮守府へ出向くようになった。そしていつしか、妻は借金の代わりに鎮守府で下女として働き始めた。
もっと早く気づくべきだった、と直孝は思う。
妻が何を代償にして平八郎から資金や物資を調達していたかを。あの男が、慈悲から金を恵むほど甘い男ではないということを。
妻は、その身を平八郎に売っていた。
真実を知った時、直孝は妻に裏切られたと思った。額を床に擦りつける妻を罵倒し、彼女をかばう子供たちを振り払い、家から妻を追い出した。自分たちはそこまで落ちぶれてないのだと、なんという恥知らずなことをしたのだと、本気でそう思った。
今思えば、愚かしい誇りだった。何もできない自分が、これ以上惨めになりたくなかっただけなのだ。
その後、領境で一つ鬼の女が死んでいたという噂を耳にしたのは、かなり経ってからで、直孝が安い居酒屋で飲み潰れていた時のことだった。
茫然自失のまま久しぶりに家に帰ると、子供たちさえ姿を消していた。
もう本当に何もない。この朽ちていくあばら屋で己れも朽ちていけばいい──そう思い、全てを諦めかけた時にその男は現れた。
突然ふらりと家にやって来た頭に角のない鬼は、無遠慮に玄関先に座ると「月夜の里に戻って来ないか」と唐突に直孝に持ちかけてきた。
誰だと尋ねても、「なしに名などない」と言ってはぐらかす。
ただ、冷ややかでありながら、どこまでも穏やかな男の瞳は、返って直孝の気持ちをそぞろとさせた。
そして、名もなきなし者は言った。
「積年の無念を晴らす好機だとは思わないか? 里に戻り、己の為すべきことを為せ」
「私に為すべきことなどもう何もない」
すかさず答える直孝に対し、なし者は全てを見透かすような眼差しを向けた。
「将来、鬼伯の息子が必ずおまえを訪ねてくる。その時、月詞の存在を指し示せ。さすれば、彼はきっとかの歌を探し当てるだろう。そして、それが大きなうねりになり、月夜を──北の領を変える。
今さら失われた歌をどうやって探すというのか。まるで世迷いごとのような話だ。しかし、その男の言葉は直孝の心を強く惹きつけた。
「おまえは一体何者だ? そんな世迷いごと、誰が信じる?」
再び男に問う。しかし、彼は「問題はそこではない」と笑うだけだった。
「要は直孝、おまえが私の話の続きを聞きたいかどうかだ」
かくして、直孝は月夜の里へと戻り、あてがわれた庵で何十年もひたすら伯子の訪問を待ち続けた。
待ちわびた果てに現れたのは、旺知とは似ても似つかない穏やかで真っ直ぐな青年だった。
「……探し当てられたのですな、伯子殿」
直孝は一人満足げに呟く。
しかし、まだだ。まだ、自分には為すべきことが残っている。なし者との約束は終わっていない。
庭の隅に植えたドウダンツツジが、火トカゲの炎と同じ赤に染まり始めていた。涼気を帯びた風が直孝のひなびた頬をさわりとなでた。
月夜の秋が終わろうとしていた。
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