堅物の与平さんと美女の深芳さん① 思いでの市女笠(後)

「お泊まりになりますか?」


 堅苦しい顔が常の男に、優しい顔で尋ねられ、思わず深芳はこくりと頷く。

 正直、頭が真っ白になった。


 今まで与平の家に通い(押しかけ)続けて数十年。ことある毎にダメ出しをくらい、流した悔し涙は数知れず。

 成果と言えば、話を聞いてくれた、手を握ってくれた、頬に口づけてくれた──、ほぼ子供のような扱いである。


 里一の美女と謳われ、振り返らぬ男はいないというのに、この下野しもつけ与平は、決して自分に手を出さない。そこに物足りなさがないと言えば嘘になる。しかし、心地よさを感じている自分がいることも確かだ。


 なぜなら、深芳は男女の関係に十分に疲れていたから。


 この美貌のせいなのか、もともと生まれた星なのか。男運はない方だと自覚している。

 初めて男を教えられた相手は、ただのクズ。それ以外も皆同じ。男は自分を「もの」としか見ていない。

 唯一好きになった相手は、皮肉なことに親友の千紫を好きになったし、三百年前の月夜の変では、旺知あきともは自分を「戦利品」にしようとした。千紫の機転で「戦利品」は免れたものの、その代わりに、旺知の兄で「なし者」である九洞くど成旺しげあきと偽りの夫婦となる羽目になった。

 あらためて思い返しても、ろくな思い出がなく、まったく懐かしくもなんともない。


 男は嫌い。頭の上から踏みつけるぐらいのことをしなければ、奴らはすぐにつけあがる。

 それが深芳の男に対する一貫した考えだ。


 しかし与平だけは別だ。彼はダメ出しはしてくるが、自分を女として軽んじることはない。何より彼は、「深芳」が背負っているものを一緒に背負うと言ってくれたのだ。


 そんな男からの「泊まっていけ」という初めての誘い。形だけの夫も亡くなり、今はこちらも独り身である。なんの制約もない。


 今日も追い返されると思っていた深芳にとって、彼の言葉は頭を真っ白にさせるに十分だった。 


(紫月、母は今宵、女になるぞ)


 すでに娘がいる女がこれ以上どう女になるのか全く意味が分からないが、深芳は完全に舞い上がっていた。



 その日の夕餉ゆうげは、与平があり合わせの物で作ってくれた。

 質素な食事をいただきながら、与平から沈海平での出来事について報告を受ける。同時に、彼に娘の月詞つきことのことについて尋ねられた。


 今、紫月は水天狗にさらわれて岩山がっさん霞郷かすみのごうというところにいるらしい。話が通じる相手らしく、「質」というより「客」に近い扱いを受けていて心配はいらないが、そこで自由に歌っていると与平から説明された。


 伯子の宵臥よいぶしとして上がった以上、予想していた事態ではある。そこは覚悟を決めていた、と言うより、覚悟の上で送り出したのだから、それをそのまま与平に伝えた。当然ながら千紫も全て承知の上であることも。


「お二人で、共謀ですか……」


 ため息まじりに与平に呟かれ、少し居心地の悪さを覚える。千紫と自分はただの親友ではない。お互いに心の支えであり、同志であり。二人で政変後の三百年を生き抜いてきたと言ってもいい。


「すまぬ。いろいろ驚かせた」


 ひとまず深芳が謝ると、与平はしょうがないといった風に表情を少し和らげた。


「まあ、宵臥など、最初ハナから大人の思惑が多分に含まれているものですし。しかし、遠からず伯の耳にも入るでしょう。どうなさるおつもりで?」

「くだらぬ運命に負けぬよう育てたつもりじゃ」

「確かに、あなた様と同じく一筋縄では御せぬ姫で、碧霧さまも困っておいででした。ただ──」

「?」

「相手はあの旺知あきともです」


 与平が珍しく鬼伯を「旺知」と呼び捨てにした。あの男のことを北の領の統治者としてではなく、今なお油断のならない相手として認識していることが分かる。


 三百年前に旺知が起こした月夜の変。今の八洞やと十兵衛に従い、与平自身も当時はそれに加担した。

 しかし、大義とは名ばかり。野盗と変わらない傍若無人な二つ鬼たちの振る舞いに嫌気が差し、一人で帰ろうとしたところを千紫と出くわした──というのは、以前、与平本人から聞いた話だ。

 そしてその気持ちは今も変わっていないらしい。


「紫月の歌を聞いたか?」

「は。三百年前に聞いた藤花さまの月詞つきこと以来です。久々に美しい調べを聞きました」

「……あれ以上じゃ。紫月の歌は、藤花を凌ぐ。おそらく、伯座を追われた義父上ちちうえさまや、義兄上あにうえさまをも」


 深芳は独り言のように呟く。


 娘に月詞つきことを教えるつもりなど毛頭なかった。そもそも母親である自分が歌えないのだ。わざわざ危険を犯して藤花の元へ通わせようなどと思ってはいなかった。

 普通に、ただの姫として育てるつもりだった。


 しかし、娘は歌った。誰に教えられることもなく、自分で勝手に天地あまつちと対話をして。


 その時、娘の運命は決まったと言っていい。必ずや北の領に大きな風を巻き起こすと。

 となれば、後は彼女とともに歩んでくれる者を探すだけである。

 当然ながら、その相手は一人しか思いつかなかった。深芳が最も信頼を置く親友の息子。なぜなら、そういう約束だったのだから。


「深芳さま、冷めてしまいます。食べましょう」


 与平の一言が深芳を過去から現在へと呼び戻す。

 はっとして彼を見ると、その顔は「今さら過去を振り返るな」と言っていた。唯一、千紫以外で娘の事情を隠さずに話せる相手である。その存在に、どれだけ助けられたことか。


 その後は、御座所のどうでもいい政治事情や日々の当たり障りのないことを互いに話す。夜も更けてきたところで、与平が寝間を用意すると言って部屋を出ていった。


 ここに来て、再び深芳は緊張し始める。


(今日に限って、古びた肌衣はだぎぬじゃ。ならば、さっさと脱いで──それでは、がっついた女ではないかっ。乙女の恥じらいというものを演出せねば!)


 どうでもいいことが気になって、あれこれと思い悩む。と、寝間を整え終えた与平が再び部屋に戻ってきた。


「案内します」

「ありがとう」


 跳ね上がる心臓を押さえつつ、深芳は素知らぬ顔で立ち上がった。さして長くもなく広くもない廊下を与平について歩いていく。前を歩く彼の背中を見つめれば、自然と胸が高鳴った。


 いっそ、背中に抱きつきたい。

 自覚はないが、十分にがっついている。


 与平の部屋はこの廊下の一番奥である。

 しかし、彼は途中手前の部屋で立ち止まると、くるりと振り返った。


「こちらになります」

「……」


 狭い部屋に布団が一つ。枕も一つ。

 古びた箪笥たんすが置かれたそこは、かつて彼の母親が使っていた部屋だ。


「ここは、かか様の部屋じゃ」


 与平が「かか」と呼ぶので、深芳は彼の母親のことを「かか様」と呼んでいた。

 盲目の彼女は「おんらは育ちも頭も悪いでの」が口癖であったが、教養はなくともしっかりとした考えを持った強い女性だった。


 与平が早く入れとばかりに深芳を促した。


「家が手狭で適当な部屋がありませんので、ここでご容赦を」

「ならぬ。大切な部屋ではないか。私が使うなど、滅相もない」


 そもそも、自分の部屋になぜ案内しない。それで丸く収まるはずだ。

 いろいろと戸惑う深芳に、与平は困った顔を返す。


「ここなら亡き母が見ております。それ以外の部屋は、儂の自制が利かなくなりますので」

「自制……」


 そんなもの「泊まれ」と言った時点で捨ててしまえと思ったが、そこがなんだか与平らしい。

 いろいろと拍子抜けしつつ、深芳はふうっと大きなため息をつく。そして、恨めしげに与平を軽く睨みつけた。


「だとしても、今宵は口づけぐらい良いのではないか?」


 辛うじてそう訴えれば、与平がわずかばかり顔を硬直させた。深芳が口を尖らせそっぽを向く。


 しばしの沈黙──。


 ふいに与平の指が深芳のあごを捉え、そろりとすくい上げた。


「では、お言葉に甘えてきつめのを一つ失礼いたします」

「え?」


 きつめとはなんだ? という問いは、与平の口で塞がれた。


 虫の音が、やたらとうるさい夜だった。

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