幕間(一)
堅物の与平さんと美女の深芳さん① 思い出の市女笠(前)
碧霧の命を受けて
さすがに遅すぎるので、その日はそのまま自宅で休み、そして次の日、彼は誰よりも早く
それから、確認したことを報告すべく沈海平へ式神を飛ばす。次に留守中に溜まった仕事を処理し、
明日は、なんとか蟲使いの四洞に会って「火トカゲ」の捕獲状況を確認しつつ、これを売りさばくために里中の商人と交渉する予定だ。
思えば、ずっと働いている気がしないでもない。人の国には「過労死」という言葉があるらしいが、確かに少し休みたいと思う。こんな日は、早く帰って寝るに限る。
彼の家は家元たちの屋敷が立ち並ぶ西部の外れ、里中に近い位置にある。
月夜の里の土地は、
しかし、彼は昔ながらの西の端で、昔からの粗末な家にずっと住んでいた。盲目の母もすでに亡く、今は気楽な一人暮らしである。
どんなに粗末であったとしても、豪華な家より我が家がほっとする。
そう思いながら与平は少し滑りの悪くなった玄関の引き戸を開けた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
刹那、目に飛び込んできたのは、息を飲むような一つ鬼の美女。
透き通るような雪肌に切れ長で色めいた瞳。花びらを思わせる唇がふわりとほころぶ。
古びた板がみすぼらしい玄関の上がりで、ゆるくうねった栗色の髪を茶屋辻模様の白の小袖にはらはらとこぼし、場違いな美女は両手をついて微笑んでいた。
「……」
思わず与平は、そのままぴしゃりと戸を閉める。
大丈夫、儂は何も見ていない。
が、
「与平、なぜ閉めるのじゃ! いつもいつも女心を容赦なく踏みにじりおって──!」
戸の向こうで、悔しがる女の呻き声が聞こえた。こうなると、もはや悪夢に近い。
与平は大きく深呼吸をしてから、意を決して再び戸を開けた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
再び、さっきと全く同じ所作で美女が両手をついて出迎える。
与平は冷めた目で彼女を見た。
「何をしておいでです? 深芳さま」
この台詞は、あれだ。人の国で根強い人気がある「メイド」だ。
深芳が無邪気な笑顔をことりと傾げる。
「お前が戻っていると千紫から聞いての。こうして今風に出迎えておる」
「……それは、紫月さまの影響ですか? 親子そろって人の国にかぶれるのもほどほどにしていただきたい」
里中に近い与平は意外にこういう情報に耳ざとい。そういうのを真似た、いかがわしい店が里中にあることも知っている。
まあ、あの訳の分からないフリフリの格好をしていないだけ彼女はましだと言えるのだが。
「出迎えるなら普通でいいです。普通で」
「駄目か?」
「駄目ですよ、いろいろと」
容赦ない駄目出しに、深芳がふるふると体を震わせ悔しそうに顔をそむける。
「この私に向かって、いろいろと駄目とは!! 仮にも里一の美女と謳われた私に対し……」
「いやだって、本当にそこしか取り柄がないんじゃないかと思えるくらい駄目ですから。なぜ、そんなに駄目になったんです?」
「駄目、駄目、と何度も言うでないっ」
落山の「深芳」と言えば、その比類なき美しさは言うに及ばず、奥の方である千紫と対等に渡り合える唯一の女性である。
それがなぜか自分と二人きりの時は何かがすっぽり抜け落ちて、その欠片さえ感じない。
彼女と縁が出来たのは数十年前。正確に言えば、三百年前から関わりがあるのだが、はっきりと言葉を交わしたのは伯子が生まれた頃だ。
その頃、寄る辺なく思い悩んでいた彼女に、思い余って手を差しのべた。
そもそも、それが間違いの始まりだった。
以来この美女の迷走ぶりは度し難いほどで、いや、自分などになびいた事自体がすでに迷走なわけなのだが、とにもかくにも愛情のぶつけ方がズレている。
与平の前で深芳はしゅんと落ち込むと、床に「の」の字を書き始めた。
「……ちょっと会いたかったのじゃ」
与平は気の抜けたため息とともに顔を和ませる。そして家に上がると、深芳の手を取って立ち上がらせた。
「ちょうどいい。深芳さまにも聞きたいことがありました」
「……
「ええまあ、いろいろと」
「分かった。話を聞こう」
与平が言葉を濁すと、深芳がすっと鋭い顔つきになった。
その顔は、多くの者が知る元奥院の姫君「深芳」の顔だ。自分も、この吸い込まれそうな美しさに当時は憧れた。
しかし今は、これが彼女の素の顔ではないことを知っている。そして、感情のままにくるくると目まぐるしく変わる素の顔の方がずっと魅力的であるということも。
「心配には及びません。そのような難しい顔をなされるな」
与平は彼女の頬にそっと口づけた。深芳が真っ赤になって
「とっ、ととと突然何を──?!」
「ちょっと素に戻したくて」
そう答えれば、深芳はしばらく呆けた顔をして、それからもじもじと笑った。
「素も何も、ずっと同じ深芳じゃ」
「まあ、そうなんですが」
この真実をいったいどれぐらいの鬼が知っているだろう? そう思うと、多少駄目でも、これはこれでいいのかもしれない。
ふと傍らに目をやると、玄関の隅に市女笠が一つ。
彼女がお忍びで外出する時、姿を隠すために必ず被る物である。そして、自分たち二人の縁を繋いだ物でもある。それは三百年を経ても変わらない。
変わるものと変わらないもの──、そんな昔と今の「深芳」を市女笠だけが知っている。
ただ一つ、言えることは。
与平は、市女笠を見るとはなしに呟いた。
「市女笠の女は、思った以上に可愛らしい方でした」
「それは私もそう思う」
まるで
「ちゃんと捕まえておかないと、市女笠の女はどこぞの誰かに取られてしまうえ?」
「そんなタマではないでしょう? こちらの迷惑も省みず、押しかけてばかり」
「め、迷惑とな──」
途端に困ったように口を尖らせる。その仕草がまた可愛い。
「今日はもう遅い。このまま一緒に
夜も更けたことを理由に深芳を引き止める。
素直に「もう少し一緒にいたい」と、そう言えば済むものを。
自分も大概素直じゃないなと思いながら、堅物で知られる男は、普段はにこりともしない顔を優しく和ませた。
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