10.もう離さない

 こうして水天狗たちとの長い話し合いが終わった。

 最初は厳しかった水天狗たちの表情が、とても丸くなっていて、この話し合いが成功したことが紫月にも分かった。

 この場に立ち会うことができて、紫月は嬉しく思う。


 気になることがあると言えば、やはり府官長の小梶平八郎ぐらいだ。会談中、彼はずっと不機嫌極まりない顔で卓上を睨み続けていた。

 そして何かにつけて、「このようなことを勝手に決めて、伯がお怒りになりますぞ!」と鬼伯の名をチラつかせ、話し合いに圧力をかけてきた。


 しかし、それを押さえ込んだのも碧霧だ。


 彼に言わせれば、「こういう時は、伯子の肩書きが役に立つ」のだそうだ。

 府官長はよほど気に入らなかったらしく、「このことは全て伯へ報告させてもらう」と言って、誰よりも早く霞郷かすみのごうを去って行った。


「大丈夫なの、葵?」


 会談前もいいだけ文句を言っていたくらいだ。あることないこと好き勝手に報告をしそうである。

 不安になって紫月が碧霧に尋ねると、彼は小さく肩をすくめた。


「別に。俺の動きなんて、平八郎の報告を待たずに探らせていそうだし」

「そう……」


 息子の動向にさぐりを入れるなんてどんな父親だ? と思ったが、さすがに失礼なので口に出すのはやめた。

 そもそも彼に聞くまでもない。どんなも何も、今の鬼伯は三百年前に謀反を起こして自ら伯座に就き、多くの一つ鬼を殺した鬼なのだ。


 会ったこともないけれど、きっと怖い鬼。それが碧霧の父親だ。

 ふと、自分が沈海平しずみだいらで歌っていることを知ったら──、という思いがよぎる。もしかしたら、何かしてくるかもしれない。


 紫月の心の中に言いようのない不安がむくむくと沸き起こった。一方で、そんな鬼からどうして碧霧のような鬼が生まれたのかなとも思う。彼は絶対に母親の千紫似だ。


 すると、そんな紫月の心の中を感じ取ったのか、碧霧が彼女の不安を吹き飛ばすように明るい声で言った。


「ねえ、紫月。部屋を見せて」

「私の部屋?」

「そう。どんなところに泊まっているのか見てみたい」

「いいわよ」


 笑顔で答えて紫月は左右の守役と佐一を見た。


「みんなも行く?」


 しかし、なぜだか全員が大きく首を振って拒絶する。彼女の背後で碧霧が睨みを利かせていることに彼女は気づいていない。


 それで大広間に三人を残し、紫月は四階のあてがわれた部屋に彼を案内した。


「ここよ」

「へえ、わりと広い。この岩城の部屋はどれも開放的だな」


 入り口を衝立ついたてで仕切っただけの部屋は、それなりに大きく綺麗で、彼女が「客」として扱われていることがあらためて分かる。


「ほら、天井の彫刻が凝っていてね、綺麗な石が埋め込まれるの。まるで花が咲いているみたいで素敵でしょ」

「本当だ……。それに、ベッド!」


 畳の座敷か板間しかない奥院育ちの碧霧もベッドは珍しいらしい。彼は真っ先にベッドにぼすんと座った。そして紫月の手を引くと、彼女を膝の上に乗せた。


 碧霧が少しあらたまった表情で紫月を見つめた。


「ごめん、結局巻き込んだ」

「巻き込まれたなんて思ってないわ」

「でも、歌うなって言ったのは俺なのに。たぶん、父上にも知られてしまう。もちろん、絶対にどうにもさせないけど……」


 同じことを碧霧も考えていたようだ。彼は不安と怒りが入り交じったような複雑な顔みせた。


 碧霧にしてみたら、一難去ってまた一難、といったところなのだろうか。


(だとしても、)


 せめて二人でいる時ぐらいは、穏やかな顔でいて欲しい。

 彼女は、大げさに笑顔を作った。


月詞つきことを歌ったのは私の意思よ。葵に言われなくても、私はきっと歌ってた。だから、そんなに自分を責めないで。葵は十分頑張ったわ」

「ありがとう。紫月ならそう言ってくれると思った」


 言って碧霧は紫月をぎゅっと抱き締めた。

 

 かつて、歌を探せと言われた。

 そして今、見つけ出した歌が疲れた大地を癒そうとしている。


 なし先生はこうなることが分かっていたのだろうか。

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。彼なら予想していたかもしれない。


 でも──、と碧霧はまた思う。

 仕組まれた運命でも、偶然の巡り合わせでも、今はもうなんでもいい。


 こうして彼女と沈海平ここに来たことも、今、腕の中に感じる温もりも、間違いなく自分自身のものなのだから。


「毎日会いに来るよ」

「三日に一度くらいで大丈夫よ。妃那古や香古もいるし、真比呂たちもいるもの」

「そこは、嘘でも喜ぶところだろ」


 わりと平気そうな紫月が、彼女らしいけれど少し悔しい。


 碧霧は彼女のあごをすくい上げ、その柔らかな唇にそっとキスを落とした。

 恥ずかしそうにはにかむ彼女が可愛くて、二回目はもう少し深く唇を絡める。


 触れ合う肌も髪も、指の先まで何もかもが愛おしい。

 そして何より背中。これ、大胆すぎる。


 自然と手が背中に回る。滑らかな肌はずっと触っていたいくらい気持ちがいい。


 うーん。このまま押し倒しちゃおうかな。


 次の瞬間、碧霧はぐいっと体を傾けて紫月をベッドに押し倒した。

 紫月がぎょっとした顔で慌てて碧霧の胸を両手で押し返す。


「ちょっ、ちょっと葵、待って」

「なんで。葵は頑張ったって言ったじゃん。ご褒美が欲しい」

「ご褒美って、ついさっきまで、しおらしく反省してたじゃないの! それに今、キスしてる──んっ!」


 抵抗を始める紫月の口を強引に塞ぐ。そして、首の後ろの結び目を密かに摘まむ。


 しかしその時、


「碧霧さま、そろそろ時間です! 行きますよお!!」


 遠くで左近の野暮な声が野太く響いた。

 そろそろ時間って、言うほどゆっくりしていない。


 絶対にわざとだ。


「ほら葵っ、呼んでるよ。行かなきゃ!」


 ほっとした顔で、紫月があたふたと腕の中から逃げ出そうとする。そんな彼女を逃げないように引き戻しながら、顔を真っ赤にして焦る様子がなんとも可愛いくて、碧霧は吹き出してしまった。


 そう簡単には離さない。だって、やっと見つけた姫なのだから。


「そんなほっとした顔をして──。じゃあ、せめてあと五回、」


 うるさい声はひとまず脇に放り投げることにして、碧霧はありったけの思いを込めて彼女に深く口づけた。

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