第2.5話 それぞれの始動

幕間(三)

1 堅物の与平さんと美女の深芳さん③ 仲良し夫婦(前)

 夕飯も終わり、与平はリビングのソファに仰向けに寝転がって本を読んでいた。まげを結っていた髪も今では短く刈り上げ、着ているのはグレーのスウェットの上下という楽なものである。


 阿の国から逃れておよそ一年、ようやく人の国にも慣れてきた。


 猿師に用意された家は、「マンション」と呼ばれる高層住宅の最上階。そのワンフロア全てが与平たちの家だ。玄関を入ってすぐ、広いリビングがあり、そこからダイニングやキッチンへと続く。さらに奥には、寝室と書斎、和室まである。そして、リビングから延びるゆったりした螺旋階段を上がった二階は、紫月の部屋だ。三人で住むのであれば、十分な間取りと言える。


「ヘイさん、何を読んでるの?」


 食後の洗い物を終えた深芳がキッチンからやって来た。彼女はエプロンを外して傍らに放り投げると、遠慮なく彼の胸の上に転がり込んだ。ちなみに、この家の家事は全て当番制である。与平一人に負担をかけさせないためだ。


 窮屈そうに体をねじりながら深芳がぐいぐいと胸と腕の間に入ってくる。腰下まであった彼女の豊かな栗色の髪は、背中ほどの短さになった。そして、彼女が着ているピンクのスウェットは、与平と色違いのものだ。

 与平は苦笑しながら深芳を胸の中に収めた。


「どうしてこんな狭いところに入ってくるかな」

「んー? 甘えたいから」


 さらりと言って、深芳は与平の首もとに頬を押し当てじゃれてくる。そして彼女は、与平が開いている本のページを上目づかいで覗き見た。


「それ、おもしろい?」

「ああ、これは株の本。要はお金の話しだな。ミィは興味ないだろう?」

「そうねえ。でも、お金の話だったら、千紫が好きそう」

「十兵衛さまもきっと好きだな」


 一年前、夫婦となって互いの呼び方と言葉遣いを改めた。従来のままでも良かったのだが、深芳が「夫婦らしくない!」と言い出したことと、人の国では家族は基本的に「タメ口」だということで、紫月を含めて話し合いをした結果がこれだ。

 なんでも、愛称で呼んでもらうのが彼女の夢だったらしい。以来与平は、彼女のことを「ミィ」と呼んでいる。かなり抵抗があったが、今では紫月姫も呼び捨てで、それもすっかり慣れてしまった。いやはや、慣れとは恐ろしい。

 ちなみに、紫月は与平のことを「パパ」と呼ぶのが希望だったらしい。が、いろいろ誤解を招きそうな響きだったので、彼は丁重に断った。


「……ねえ、ヘイさん。明日、買い物に行きたいんだけど」

「いいけど?」

「少しずつ暖かくなってきたでしょう? 薄手の服が欲しいなって」

「じゃあ三人で出かけて、どこかで食事をして帰ろうか」

「いいわね」


 深芳が嬉しそうに笑ってぎゅっと与平に抱きついた。柔らかな彼女の肢体が、与平の体にぴったりと密着する。

 困ったな、これでは読書どころではない。与平は本を傍らのテーブルに置くと、その細い腰に手を回した。


 するとその時、


「だから、どうしてリビングでいちゃつくかな」


 わざとらしいため息とともに鈴の音のような声がりんっと響いた。二人が同時に声がした方を見ると、二階から下りてきた紫月が呆れた顔でこちらをじとりと睨んでいる。


「少しは娘に遠慮しようとか、人目をはばかろうとか、そういうのないわけ?」

「あら、私とヘイさんの仲がいいからって、やっかまないで」

「別にやっかんでない。呆れてるの。なんのための二人の寝室よ。ヘイさん、鬱陶うっとうしいなら遠慮なく放り捨てていいよ」


 負けじと紫月が言い返し、やや同情めいた目を与平に向ける。彼はそれを苦笑いで受け流した。

 確かに今の夫婦生活は、義理の娘に対し遠慮がない。しかし、与平はそれでいいと思っている。

 なぜなら、紫月は仮にも伯子碧霧の宵臥よいぶしであり、最愛の姫である。一つ屋根の下、彼女との間に妙な疑惑が浮上するのは、与平としても避けたい。

 そんな訳で、面倒な問題にならないよう、与平はあまり人目を気にしないことにしていた。何より、母親の深芳が全く気にしていない。我が妻は、人の国に来て今まで以上に自由になってしまった。 


 紫月は与平から全く離れる気のない母親に肩をすくめ、「ちょっとテラスで涼んでくる」と外へと出ていった。

 その後ろ姿を見送りつつ、与平はを思い出し、深芳に言った。


「……そう言えば、猿師がそろそろ碧霧さまを連れてくると」

「そう」


 深芳はそっけなく頷いて黙りこくる。この話をしたくないのは、彼女の態度からありありと分かった。


 この一年の間に、彼女の妹である藤花が姫君を出産した。そしてその彼女も、もういない。九尾との盟約にかかる重要なが藤花から娘に移ったことを知った旺知あきともが、末姫処断の決定を下したからだ。

 これで元伯家の血筋は、藤花の姫君を残して絶えてしまったことになる。しかも、くだんの姫君は父親が誰か分からない父無ててなし子だ。

 深芳は元伯家の姫であったが、後妻の連れ子であり、元伯家と血の繋がりはない。彼女が処断対象にならない大きな要因の一つだった。


 当然ながら妹の死による深芳のショックは大きかった。その傷が、ようやく癒え始めたところである。与平は深芳の頭を優しく撫でた。


「伯子に──、紫月を会わせたくない?」

「……というより、できればもう関わらせたくない」


 遠慮がちではあるが、深芳ははっきりと声にした。


「北の領で生きるなら碧霧さまにお任せするしかないと思っていたけれど……、ここでこうして平穏に暮らすのもありだと思うの。くだらない権力争いに巻き込まれずにすむ」

の言葉とは思えないな」

「……落山の方なんて呼び名、もう忘れたわ。だいたい、骨抜きにしたのはヘイさんよ」


 深芳が口を尖らせ与平を睨んだ。

 まいったな、こちらのせいにされてしまった。とは言え、確かに深芳の言う通り、平穏な暮らしも悪くない。

 彼女の頭の後ろに手を回し、そのまま軽い口づけを交わす。この続きは、さすがに寝室だ。

 そう思い、与平が深芳を抱き起こそうとした刹那、まったく思いもよらない声がした。


「あの、お久しぶり……です?」


 裏返った声で、なぜか疑問系の挨拶。与平と深芳は、同時に顔を上げる。

 するとそこに、紫月と並んで伯子碧霧が立っていた。


 碧霧の後ろには、したり顔の猿師がいる。どうやら今日が、「連れてくる」その日であったらしい。

 碧霧は無粋な黒の武装束姿で、彼もまた前触れもなく猿師にさらわれて来たことが推察された。

 伯子は自身の動揺をあらわにしつつ、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように目をあちこちに泳がせた。

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