8.碧霧の切り札

 沈海平しずみだいらは、北の領最大の穀倉地だ。温暖な気候と、北から流れくる豊かな水が土地に大いなる恵みを与えている。


 碧霧たちは真比呂に案内され、近くの田畑を見て回った。収穫間近の田は、実を付けた稲穂が風に揺られて金色に輝いている。


 真比呂が眼前に広がる田を指差した。


「もうすぐ米は刈り入れの時期だ。その後、麦を植える。土地を無駄に遊ばせる訳にはいかないからな」

「今年の出来高は?」

「いつも並みと言いたいところだが──」


 言って真比呂が田の中に入り、稲の一つを手折って碧霧に見せる。


「実の粒が小さい。根が枯れてしまった田もある。年々、収穫高は減っている。麦もしかりだ。土地自体を休ませないといけない」


 紫月が興味深そうに稲穂を眺めた。


「ここで取れたお米が月夜の里で売られているのね」

「そうだ。多くが奈原や月夜の里に流れる。出来高が減れば、値が上がる」

「高く売れるのならそれはいいことじゃないの?」

「そう簡単にはいかないよ、紫月」


 碧霧が苦笑して紫月を見た。真比呂が小さく頷いた。


「その高値が、それ意外のやり取りに影響を及ぼす。物々交換の時は、そもそも値段が存在しないから、出来高が減れば、その分いろいろ不利になる。その上、奈原の税制をいきなり導入されても払うことなんて出来ない」


 そして真比呂はどこまでも広がる田畑を眺め、誰に訴えるともなく呟いた。


「土地も民も疲れている。俺たちは──、この沈海平で平穏に暮らしたいだけなんだ」


 碧霧が同じく平野に遠い目を向ける。ややして、彼は紫月に尋ねた。


「どう、紫月? 何かできることはある?」


 紫月にがあることを前提とした質問。

 碧霧からそういう質問を投げかけられるとは思っておらず、彼女は少し驚いた顔を彼に返した。


 碧霧が独り言のように呟いた。


「直孝おうは、痩せ枯れた北の領の大地を、豊かな実りある地に変えたのは、月詞つきことの力だと言っていた。もちろん、それに頼らない方法も考えていたけれど、多分ずっと効率が悪い」


 そう、彼は誰をも頼ろうとしない。

 多くの鬼に囲まれてかしずかれているのに、その実、全部を自分一人で抱え込んでいる。


 だからこそ、碧霧の言葉は紫月に重たく響いた。


「……私を、頼ってくれるの?」

「うん、紫月にしかできないことだと思うから」


 その顔は少なからず悔しそうだ。


 きっと、いつも自分でなんとかしてきたんだろうな、と紫月は思う。

 彼の立場がそうさせる。でもそれは、裏を返せばとても孤独だということだ。


 碧霧が、真比呂たちに真っ直ぐな眼差しを向けた。


「しばらく紫月をここに滞在させてもらいたい」

「……!」

「赤鉄は少しずつでも取り除く。土に混じり込んだ赤鉄を取り除くことは難しいので、まずは川底に溜まったものから。最近は西の鍛冶場でも水を濾過ろかして流しているから、水質は必ず良くなる。そこに紫月がテコ入れする。少しでも早く水質が回復するように」


 真比呂と勇比呂が驚いた顔を見合わせる。真比呂が、戸惑いがちに口を開いた。


「いいのか? 大切な存在なんだろう?」

「大切だ。けど──、これぐらいしないと沈海平の不満は収まらない」


 碧霧が淡々と答えた。


「直轄地拡大については、鬼伯の意向が強い。簡単になしには出来ない。一番大きな問題は税を徴収されることだと思うから、対応策を提示させてもらいたい」

「それでなんとかなるのか?」

「するしかない。仮に全面対決になったら、俺の父親は容赦しない。身の安全も保証できない」

「それは……脅しか?」

「そう取ってもらってかまわない。反乱は一番の悪手だ」


 真比呂がきゅっと難しい顔をしてこめかみを押さえた。思案げに視線を揺らし、ややして、彼はゆっくりと口を開いた。

 

「宗比呂叔父は、昔からの沈海平を知っていて思い入れも強い。多少ごねるかもしれないが俺が説得する。交渉の前に少しだけ時間が欲しい。対応策というのを具体的に聞きたい」

「問題ない。それで話が上手くいくのなら」


 紫月は思わず碧霧の袖をぎゅっと握りしめる。

 これは、和平の内諾だ。

 沈海平の現状を知るため、そして和平の内諾を得るために、彼は真比呂を誘い出したのだ。


 たったこれだけのやり取り。しかし、これで反乱が収まる。

 だとしたら、なんて重いやり取りだろう。


 碧霧には不思議と相手を安心させる何かがある。

 それは、彼が持つ優しさだったり、信念だったり、そういったものが相手に伝わるからだ。そして、その代償として、彼はいろいろな事を背負うことになる。


(私は、そんな彼のために来たはずなのに──)


 とんだ思い違いだった。

 彼の横に立って、同じ風景を見て、もっと何かできると思った。

 でも──、気の利いた策を提案するなんてできるわけもなく、「ちゃんと話し合って」と言うのが関の山。彼の背負っているもの一つ肩代わりできない。


 自分は歌うことしかできない。


 紫月の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。これは、悔し涙だ。


 碧霧がぎょっとして紫月の顔を覗き込んだ。

 真比呂や勇比呂もおろおろと狼狽うろたえる。


「紫月を置いていく訳じゃない。俺も鎮守府に残るつもりだし、それも嫌だって言うのなら別の方法を考えなくもないけど……」

「おい、俺たち無理におまえを引き留めようとしている訳じゃないぞ。ここに残るのが嫌なら別に──」

「違うの」


 涙を払って、紫月はきゅっと笑顔を作って見せた。

 歌うことしかできないけれど、それでも少しは役に立っているのだろうか。


 だとしたら、しないなんて選択肢はない。


「ありがとう、葵。私を頼ってくれて」


 そして紫月はそのまま碧霧に抱きついた。


「私、もう少しちゃんとした姫になるわ。そして、もう少しちゃんと葵の隣に立つわ」

「……もう十分なんだけど、」


 碧霧が紫月を受け止めて、急にどうしたんだと笑いながら答える。


 その傍らで、真比呂は「臆面もなくじゃれ合うな」と顔をしかめ、勇比呂はオヤジ面して苦笑した。

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