6.会談前夜
月の光が岩城を優しく照らす。雨上がりの空は、雨が空の汚れを綺麗に流し落としてくれるので、いつもより月も星も輝いて見える。
四階の一室で、紫月は窓に腰かけ夜空を見ていた。吽助はベッドの下の隙間に入ってすでにお休みだ。
すっかり水天狗たちと馴染んでしまった。妃那古が着替えも用意してくれて、今着ているのは左右の前身頃から伸びる布を首の後ろで結んだだけの背中が大胆に開いた服だ。夜風が肩や背中の素肌を掠め、ひんやりと心地いい。
(これ、葵が喜びそうな服だな)
たぶん、絶対に腰に手を回してきそうだ。もしかしたら、大胆に開いた背中かも。
嬉しそうな顔をして抱き締めてくる碧霧の姿が容易に想像できて、紫月は一人で「きゃっ」と笑った。
ふと、優しい子守唄を口ずさむ。夕食の後、寝る前に歌って欲しいと香古にお願いされた。
(香古に聞こえるかしら?)
柔らかな調べに言葉を乗せる。不思議な色をまとった声は、空を漂い宵闇に消えた。
その時、
戸口から視線を感じ、紫月は歌うのを止めて振り返った。
「真比呂、」
深緑の前髪をはらりと揺らし、ガラス玉のような青い瞳がこちらをじっと見つめていた。真比呂は少し緊張した面持ちで、それでも紫月と目が合うとにこりと笑った。
「本当にずっと歌っているんだな」
紫月が自分の姿を認めたことで許しを得たとしたのか、彼は部屋の中に入ってくると、窓枠に座る紫月の元へ歩み寄った。
「怖い夢を見ないよう歌って欲しいって、香古にお願いされたの」
「そうか、」
「どうしたの? こんな遅くに」
こんな話をするために来た訳ではないだろう。
紫月は首をかしげて真比呂に尋ねた。真比呂が、ふいっと目をそらし黙り込む。いつものふてぶてしい「こめかみ男」らしくない。
真比呂は少し逡巡した後、意を決したように口を開いた。
「
紫月が驚いた顔を返すと、やはり真比呂は躊躇いがちに目をそらした。そして、選び取るように言葉を続ける。
「みんなおまえの歌に心酔している。不思議な歌だ。魂にじかに語りかけてくるような……。弱った心にはなお
紫月はにわかに返答することもできず、ただ困った顔を返した。
ここに残ることを考えなかった訳ではない。自分は沈海平のためにもっと歌えると、そう思った。
ただそうなると、さすがに碧霧にちゃんと伝えないといけない。
思案顔になる紫月の様子を真比呂が窺う。
「伯子のことを考えているのか? おまえは単にあてがわれた姫だろう?」
「違うわ。まあ、いきさつ上そういうところも多少はあったけど、葵と
「……父親に楯突けない、ただの正論吐きだと聞いたがな」
「会ったこともないくせに、そんな風に言わないで」
不愉快な顔を紫月がすると、真比呂は小さく肩をすくめた。
そして彼は、紫月の黒髪をひと房すくい上げた。
「おまえが
青い瞳が紫月を捉える。
と同時に、ふいに流れ込んでくる感情に心苦しさを覚え、紫月はとっさに感覚を閉じた。
こういうやり取りは、あまり得意じゃない。
彼女は髪を払って真比呂の手からそれを奪い返しながら、にこりと笑った。
「だって私は、葵に『行ってくる』って言ったもの。助けに来るわけないじゃない。今度は会いに来てって言ったから、ちゃんと会いに来てくれるわ」
真比呂がまだ何か言いつのろうとして、しかし、納得のいかない顔で口をつぐんだ。
その時、戸口でかたんと音がした。
紫月と真比呂が同時に振り返ると、そこに妃那古が立っていた。
彼女は自分の存在に気づいた二人に向かって慌てた様子で笑みを作った。
「すっ、すみません! 寝る前に何かお飲み物はいらないかお聞きしようと思って──。立ち聞きするつもりはなくて……」
しどろもどろに答える顔は、笑っているのにかなり引きつっている。そして彼女は、「ごめんなさいっ!」と頭を下げてバタバタと走り去って行った。
「なんだ、騒がしい奴だな」
真比呂がいぶかしげに首をかしげて嘆息する。紫月は、そんな彼をじろりと睨んだ。
「なんだ、じゃないでしょ。きっと妙な誤解をされちゃったわ。戸口がオープンになっているからって、こんな夜遅くに女の子の部屋に気安く入ってこないで」
「……誤解ってな」
そうじゃないだろ。
もう一度、紫月の髪を掴もうと伸ばされた真比呂の手は──、しかし、さりげなく下ろされた。
どうかしている。相手は、質として連れてきた一つ鬼。しかも、伯子の姫だ。触れていい相手ではないし、ましてや、欲しがっていいわけもない。
「ほら。誤解、ちゃんと訂正しておいてよ」
紫月が早く妃那古の所に行けとばかりに片手をひらひら振る。
「おまえ、わりと容赦なく相手の気持ちを一刀両断してくるな」
「そうよ。私、宵臥を途中で逃げ出した姫っていうので一躍有名になったんだから」
悪びれる様子もなく紫月が言い返すと、真比呂がくつくつと喉を鳴らして苦笑する。その顔はいつもの「こめかみ男」の顔だ。
「悪い。ちょっとみんなの気持ちに圧されて、軽はずみなことを言った。今のは忘れてくれ。紫月には感謝している。みんなを代表して、それだけは伝えたかった」
「ありがとう。そう言ってもらえると、来た甲斐があったわ」
紫月は彼に嬉しそうに笑った。
明日、ようやく碧霧に会える。
そう思うだけで、自然と気持ちがほこほことする。
とりわけ自覚はなかったが、ちょっと寂しかったんだと紫月は思った。
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