5.交渉の材料
紫月が、
こうなる予感はしていた。
何より、彼女の力を利用することを自分自身が何度も考えている。
遅かれ早かれ、「一つ鬼の姫が不思議な歌を歌っている」と父親の耳にも入るだろう。
それを知った時、彼はどうするだろうか? 脅威と見なし、排除しようとするだろうか。
やっぱり好きにさせるんじゃなかったと思う一方で、彼女を縛ることなんて到底無理だとも思ってしまう。
そもそも自分と会わなければ良かったのだ。そうすれば、今でも野山で好きに歌っているだけの、ただの一つ鬼の女の子だった。
「碧霧さま──?」
黙り込む碧霧に、一同が怪訝な顔をする。
碧霧は「ああ、すまない」と軽く手を振り、意識を今の話に戻した。
「彼らの要求は直轄地からの離脱と
彼の問いかけに、佐一がすかさず頷き返す。
「それは。俺たちが何年もかけてやっていることを、紫月さまなら数か月でしてしまいそうですし」
「そうだな」
右近がとんでもないと顔をしかめた。
「まさか碧霧さま、姫さまを差し出すつもりですか?」
「しかし、今も紫月さまは自らの意思でお残りになられているだろう?」
その隣の左近は思案顔だ。
「あえてこちらから話を出す必要はないかもしれないが、どうせ残るのであれば、こちらの交渉材料の一つとするのは悪い手ではない」
「兄さんまで……」
右近が納得のいかない顔のまま引き下がる。大きな局面で物事を考えた時、紫月の存在は大きな切り札になることは右近だって分かっている。
ふと、碧霧が佐一を見た。
「ところで、どうして佐一はあれが
「父親が
「……父親が?」
「はい。子供の頃に、これは
碧霧は、まさかと彼に問い返した。
「それは──、直孝
佐一が一瞬驚いた顔を見せ、しかしすぐ、いつもの淡々とした顔に戻り小さく頷いた。ちょうどお茶を配り終えた加野のお盆を持つ手がびくりと震える。
佐一は姉に部屋を出るよう無言で促したが、彼女ははっきりと首を振り、弟の後ろに静かに控えた。
「碧霧さまは、父のことをご存じで?」
「知っているも何も、ここに来る前に会って話をさせてもらった。加野が両親はいないって言うから、てっきり死んだものだと……」
「そりゃ、家財を投げ売り、母を失い、俺たちを捨て、失意の内に月夜の里へと逃げ帰った男ですから。死んだも同然です」
背中に姉を庇いつつ、事もなげに答えるその表情はさえざえとしていて、なんの感情も漂わせない。
が、それがかえって彼の内に秘めた怒りを感じさせた。
「直孝
「家族の犠牲も厭わずね。そして最も大切なものを失い、結局は全てを投げ捨てた。美談にさえなっていない」
佐一が口の端に自嘲的な笑みを浮かべて吐き捨てた。後ろで加野がたしなめるよように佐一の袖を引っ張る。
彼はそんな姉の手を握りしめながら、「大丈夫だよ、この方は」と答える。
そして、佐一は碧霧を真っ直ぐ見据えた。
「
「……全ては覚悟の上だったと?」
「何をするにしても金がいります。そして最後は権力がものを言う」
「……」
最初から全てを持っているような奴には分からない、そう言われたような気がした。
(左近の言う通りだ)
彼らに薄っぺらい同情など披露する必要なんてなかった。
見せるべきは、身を切ってでも事を進めるという覚悟。
そのための決断をしなければ。
碧霧はきゅっと口を引き結んだ。
一方、
勇比呂は
ちなみに香古の母親はいない。数年前、香古が病にかかった時に、西境の谷へ薬草を取りに行って西の領のあやかしに襲われた。
そもそも病にかかることがなく、治療するという発想がない阿の国で、薬草を取りに行くこと自体が異例であり、そんな周囲の反対を押しきっての母親の行動だったらしい。最後は、無惨な姿で見つかったと、真比呂にそっと教えられた。
「すっかり馴染んでるな」
お椀に入ったどぶろくをちびりと飲みながら、勇比呂が紫月の膝の上に座る愛娘の様子に目を細める。
明日は会談の日だ。
「彼女の歌を聞いて体の調子が良くなったとか、水がおいしくなったとか、本当か嘘か分からない話まで出てきた。しかも、まれに見る美姫のくせに気安い。若い奴らは覚えてもらおうと、あれこれ世話を焼くのに必死だぞ」
「ふん……」
真比呂が鼻を鳴らして興味がないといった態度をする。しかし、その顔は笑っていて、態度とは裏腹な心の内がうかがえた。
そんな真比呂の様子を伺いつつ、勇比呂が彼にやんわりと提案する。
「……
「自分の一番大切なものを差し出したりはしないだろ」
そう勇比呂に答えながら、実は自分も同じ気持ちであることを真比呂は自覚する。
自分だけではない。きっとこの食堂に集まっている誰もがそう思っている。
ただ──。
「紫月のことを交渉の卓上に出したくはないな」
勇比呂が、さも真比呂の気持ちを代弁するかのように言う。それが少し悔しくて、彼はただ「そうだな」と素っ気なく答えた。
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