5.交渉の材料

 紫月が、岩山がっさん霞郷かすみのごうで歌っている。


 こうなる予感はしていた。

 何より、彼女の力を利用することを自分自身が何度も考えている。


 遅かれ早かれ、「一つ鬼の姫が不思議な歌を歌っている」と父親の耳にも入るだろう。

 それを知った時、彼はどうするだろうか? 脅威と見なし、排除しようとするだろうか。


 やっぱり好きにさせるんじゃなかったと思う一方で、彼女を縛ることなんて到底無理だとも思ってしまう。

 そもそも自分と会わなければ良かったのだ。そうすれば、今でも野山で好きに歌っているだけの、ただの一つ鬼の女の子だった。


「碧霧さま──?」


 黙り込む碧霧に、一同が怪訝な顔をする。

 碧霧は「ああ、すまない」と軽く手を振り、意識を今の話に戻した。


「彼らの要求は直轄地からの離脱と沈海平しずみだいらの洗浄──。それに、紫月を欲しがると思うか?」


 彼の問いかけに、佐一がすかさず頷き返す。


「それは。俺たちが何年もかけてやっていることを、紫月さまなら数か月でしてしまいそうですし」

「そうだな」


 右近がとんでもないと顔をしかめた。


「まさか碧霧さま、姫さまを差し出すつもりですか?」

「しかし、今も紫月さまは自らの意思でお残りになられているだろう?」


 その隣の左近は思案顔だ。


「あえてこちらから話を出す必要はないかもしれないが、どうせ残るのであれば、こちらの交渉材料の一つとするのは悪い手ではない」

「兄さんまで……」


 右近が納得のいかない顔のまま引き下がる。大きな局面で物事を考えた時、紫月の存在は大きな切り札になることは右近だって分かっている。


 ふと、碧霧が佐一を見た。


「ところで、どうして佐一はあれが月詞つきことだと分かった? 確かに不思議な歌ではあるけど」

「父親が月詞つきことを歌えたんです。と言っても、紫月さまよりずっと下手くそで、家族以外の者の前で歌ったことはありませんが」

「……父親が?」

「はい。子供の頃に、これは天地あまつちと会話をする内緒の歌だと、でも三百年前に歌うことが禁じられ、今は誰も歌い手がいないんだと聞かされました。ちゃんとした歌い手がいれば沈海平をどうにかできるのにと、父はいつも嘆いていましたね」


 碧霧は、まさかと彼に問い返した。


「それは──、直孝おうか?」


 佐一が一瞬驚いた顔を見せ、しかしすぐ、いつもの淡々とした顔に戻り小さく頷いた。ちょうどお茶を配り終えた加野のお盆を持つ手がびくりと震える。

 佐一は姉に部屋を出るよう無言で促したが、彼女ははっきりと首を振り、弟の後ろに静かに控えた。


「碧霧さまは、父のことをご存じで?」

「知っているも何も、ここに来る前に会って話をさせてもらった。加野が両親はいないって言うから、てっきり死んだものだと……」

「そりゃ、家財を投げ売り、母を失い、俺たちを捨て、失意の内に月夜の里へと逃げ帰った男ですから。死んだも同然です」


 背中に姉を庇いつつ、事もなげに答えるその表情はさえざえとしていて、なんの感情も漂わせない。

 が、それがかえって彼の内に秘めた怒りを感じさせた。


「直孝おうは……、洞家を追われてからも、沈海平しずみだいらのために尽力されたと聞いた」

「家族の犠牲も厭わずね。そして最も大切なものを失い、結局は全てを投げ捨てた。美談にさえなっていない」


 佐一が口の端に自嘲的な笑みを浮かべて吐き捨てた。後ろで加野がたしなめるよように佐一の袖を引っ張る。

 彼はそんな姉の手を握りしめながら、「大丈夫だよ、この方は」と答える。


 そして、佐一は碧霧を真っ直ぐ見据えた。


小梶こかじ平八郎は、都合のいい捨て駒として俺たち姉弟きょうだいを手に入れたと思っているかもしれないですが、俺たちは、水天狗たちやここで暮らす者たちのために、自らこの状況を受け入れたんです。鎮守府ここでの内情を知るために、そして領政が少しでも沈海平に有利に働くように」

「……全ては覚悟の上だったと?」

「何をするにしても金がいります。そして最後は権力がものを言う」

「……」


 最初から全てを持っているような奴には分からない、そう言われたような気がした。


(左近の言う通りだ)


 彼らに薄っぺらい同情など披露する必要なんてなかった。

 

 見せるべきは、身を切ってでも事を進めるという覚悟。

 そのための決断をしなければ。


 碧霧はきゅっと口を引き結んだ。




 一方、霞郷かすみのごうに残った紫月は、水天狗たちと共に三日間を過ごした。彼女の扱いは、すっかり「質」から「客」に格上げされ、食事も二階の食堂でみんなと一緒だ。


 勇比呂は香古こうこの前では陽気なお父さん、真比呂の叔父である宗比呂は鬼嫌いの新し物好きな商売上手、妃那古は真比呂のことがたぶん……まあ、いろいろ分かった。


 ちなみに香古の母親はいない。数年前、香古が病にかかった時に、西境の谷へ薬草を取りに行って西の領のあやかしに襲われた。

 そもそも病にかかることがなく、治療するという発想がない阿の国で、薬草を取りに行くこと自体が異例であり、そんな周囲の反対を押しきっての母親の行動だったらしい。最後は、無惨な姿で見つかったと、真比呂にそっと教えられた。


「すっかり馴染んでるな」


 お椀に入ったどぶろくをちびりと飲みながら、勇比呂が紫月の膝の上に座る愛娘の様子に目を細める。


 明日は会談の日だ。


「彼女の歌を聞いて体の調子が良くなったとか、水がおいしくなったとか、本当か嘘か分からない話まで出てきた。しかも、まれに見る美姫のくせに気安い。若い奴らは覚えてもらおうと、あれこれ世話を焼くのに必死だぞ」

「ふん……」


 真比呂が鼻を鳴らして興味がないといった態度をする。しかし、その顔は笑っていて、態度とは裏腹な心の内がうかがえた。

 

 そんな真比呂の様子を伺いつつ、勇比呂が彼にやんわりと提案する。


「……沈海平しずみだいらは土地も民も疲弊している。紫月がここに残ってくれると助かるんだが」

「自分の一番大切なものを差し出したりはしないだろ」


 そう勇比呂に答えながら、実は自分も同じ気持ちであることを真比呂は自覚する。

 自分だけではない。きっとこの食堂に集まっている誰もがそう思っている。

 ただ──。


「紫月のことを交渉の卓上に出したくはないな」


 勇比呂が、さも真比呂の気持ちを代弁するかのように言う。それが少し悔しくて、彼はただ「そうだな」と素っ気なく答えた。

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