2.小さな来訪者

 碧霧の家、あるあるだ。


 父親が内密に進めていることを、母親は独自の情報網で把握している。しかし、彼女はそうしたことを息子に教えてくれるほど優しくはない。


 つまりは、自分でそれぐらい調べておけということだ。


 碧霧は深いため息とともに思案顔になる。


 とにもかくにも、千紫が把握しているのに放置しているということは、この話は府官長の独断によるものではないと言うことになる。旺知あきともが関わっている可能性が非常に高い。


 もともと沈海平しずみだいらは水天狗たちの自治が認められていた土地だ。彼らにしても、この地は自分たちのものだという自負がある。

 月夜の鬼はただ、領境を守ってさえいればいい。その限りにおいて、彼らは月夜つくよに属するというだけなのだ。


(それを、事実上の支配下に置き、かつ反乱を鎮め、土地と川を綺麗にして来いと。むちゃくちゃだな)


 何も分かっていない若造がやれるものならやってみろといったところだろうか。本当なら、すぐにでも交渉に臨みたいところだった。


 しかし、さすがに事実確認やあれこれ思案する時間が必要だと思い、佐一には余裕のある日程を伝えた。結果、そうして正解だった。


「交渉には、さすがに府官長も同行するな」

「まあ、そうでしょうね」


 となると、こちらの話は父旺知あきともに筒抜けになる。

 ま、隠すつもりもないし、探りも入れられてそうだけれど。


「どうなさるおつもりで? 直轄地の話抜きに和平交渉は進みますまい」

「分かっている。左近、火トカゲの調達はどうなっているか、四洞に確認するよう与平に伝えてくれ」

「……赤鉄を火トカゲに食べさせるという話を交渉の場でなさるのですか?」

「うん、まあそう思ってたんだけど。有効利用と言うか、儲け話をしようかと思って」

「は?」


 怪訝な顔をする左近に碧霧は含みのある笑いを返した。




 岩山がっさん霞郷かすみのごう──。

 紫月は子供の頃の夢を見た。


 ここはそう、東の端屋敷はやしきの縁側。艶やかな黒髪が美しい一つ鬼の女性は藤花、その隣で歌っている幼い女の子は自分だ。


 と、幼い紫月は藤花に「ダメじゃ」と歌を止められた。


「同調しすぎじゃ。もう少し、心を閉じよ」

「だって、よんでくるんだもの」


 紫月は、何がダメなのか分からず口を尖らせた。藤花が困った顔をする。


「呼ばれていたとしてもじゃ」

「どうして?」

「心がさらわれてしまうえ」


 言って藤花は、小さな姪の頭を優しくなでる。


「おまえには繋ぎ止めておく者が必要かもしれんの」

「つなぎとめておくもの?」

「そう、天地あまつちに負けぬ大きな気を持つ者、あるいはそれらを断ち切る強い気を持つ者」




 ふわりと紫月が目を覚ますと、そこは初めて見る部屋の中だった。

 蔦の彫刻が一面に施された石造りの天井は、ところどころに宝石が埋め込まれていて、それが小花のようにきらきらと輝いている。

 寝ている場所は、床でも畳の上でもなく、なんとベッドの上。


 紫月は体を起こすと、ぼんやりと周りを見回した。


 傍らで寝そべっていた吽助うんすけが、さっと起き上がり彼女に身を寄せる。


 小ぢんまりとした石造りの部屋は、出入り口をとう衝立ついたてで仕切り、中央には簡素なテーブルと椅子が置かれてある。窓際には楊柳の生地が垂らされ、それが風に吹かれてそよそよと揺れていた。


「確か、広間でごろんと横になったはず……」


 誰かがここに運んでくれたかな?

 紫月は大きく伸びをする。

 そして、ベッドから降り、窓際の楊柳の生地を巻くって外を見ると、しとしとと優しい雨が降っていた。


 と、その時、


「鬼の姉々ねえね、起きた?」


 可愛らしい声が出入り口から聞こえた。

 なんだ? と紫月が振り返ると、とう衝立ついたての隙間から小さな女の子が顔を覗かせている。


 ガラス玉のような青い瞳をくりくりさせ、深緑の髪を両サイドでぎゅっと結んでいる。

 彼女は紫月の頭の角と白い狛犬を珍しそうにまじまじと見つめながら素早く中に入ってきた。


「あら、あなたは誰?」


 小さな来訪者に問いかけると、彼女は白い歯をのぞかせ背中の翼をぱたぱた動かして笑った。


「私? 私は香古こうこととを助けてくれたお礼を言いに来たの」

とと?」

「うん。勇比呂」


 なるほど、げじげじの眉毛が彼と似ているかも。でも、ぷくぷくの頬や可愛い口元はきっと母親似だ。


(そうか、勇比呂は父親だったんだ)


 そう思いながら紫月は香古の前にしゃがんだ。


「助けた訳じゃないよ。羽化のお手伝いをちょっとしただけ」

「そうなの? みんなが不思議な歌を歌って治したって言ってるよ」

「歌はね、ちょっと得意なの」


 紫月が笑いながら答えた。小さな水天狗は、「へえー」と感心した声を上げ、背中の翼をさらに大きくぱたぱたさせた。どうやら、背中の翼と彼女の感情は連動しているらしい。

 そして、期待を抱いた目で紫月を仰ぎ見る。


「だったら、姉々ねえね

「ん?」

「その歌、香古も聞きたい!」

「そっか、」


 紫月とは香古を抱き上げた。


 ここに来てから、ずいぶんと好きに歌っている。


 子供の頃、木々の声、風の声に応えているうちに、自然と言葉が歌になった。

 ある日、その歌をたまたま母親の深芳の前で歌ったら、深芳は血相を変えて歌を止めた。そして数日後、紫月は藤花の屋敷へ連れていかれた。


 この歌は、誰かの前で歌っては決していけない。そう大人たちに教えられた。


 しかし沈海平ここでは、難しい顔をする者は誰もいない。

 人前で歌うことを禁じられてきた紫月にとって、それはとても新鮮だった。ただ自由に歌えることが、こんなに嬉しいことだなんて、すっかり忘れてしまっていた。


 紫月は窓際に行くと、楊柳の生地を捲り上げ、少し出っぱった部分に水天狗の少女を座らせた。


 しとしとと降る雨は、荒ぶる御霊みたまを鎮める癒しの雫だ。

 

 紫月はその優しい気を全身に取り込みつつ、感謝の気持ちを調べに乗せる。

 不思議な色をまとった紫月の声が、じんわりと霞郷かすみのごうを包んだ。

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