3.川面に石は投げられた
しとしとと雨が降る中、右近と佐一が空馬で鎮守府から染井川に沿って南に下ること三里ほど、だだっ広い平野に
黒い防水マントを羽織りフードを深く被った佐一が、眼下の岩山を指差した。
「あそこです。岩山を中心に色とりどりの屋根が見えるでしょう? あの岩山全体が城となっています」
「あれが、
雨に濡れて青光りする岩肌に、いくつもの人工の穴──窓が見える。山の頂上は平たく整備されていて、空を飛ぶ水天狗たちの発着場だと思われた。
右近はその威風あふれる岩城の構えに、思わずフードを上げて息を飲んだ。
「ところで、右近さん」
馬を降下させながら佐一が、ふと、右近に尋ねた。
「碧霧さまは、どういう方ですか?」
「どうって、見たまんまだよ。私らにはね」
右近が軽く肩をすくめながら答える。
「ひと癖もふた癖もある洞家の鬼たちを普段から相手にしているもんだから、社交辞令たっぷりの掴みどころのない顔が、そりゃもう板に張りついたカマボコみたいになっちゃってるけどね。強い信念を持った真面目で優しい方だよ」
「カマボコって、」
佐一がぷっと笑った。その反応を見て右近も笑う。
しかし彼女はすぐに真面目な顔になり、佐一に言った。
「そのカマボコ伯子が、争いたくないって言ってるんだ。こちらの誠意を伝えて欲しい」
「分かってます。姉さんのことで借りもありますし。争いたくないのは水天狗たちだって同じです。争いは土地を疲弊させますから」
「だとしたら、期待が持てそうだな。助かるよ」
矢倉のある門の、少し離れた所に降り立ち二人は顔を見合わせる。門前には、番兵と思われる天狗が二人立っていた。
とその時、
優しく澄んだ歌声が岩城から聞こえてきた。独特の抑揚をつけた旋律と不思議な色をまとう歌声が、雨粒と混じり合い、合い淡い光となって
「これは──」
佐一が信じられないと大きく目を見開いた。
「まさか……、
そんな佐一を今度は右近が驚いた顔で見た。
「おまえさん、月詞だって分かるのかい?」
「ええ。でも、ここまで洗練されたものは──。いったい誰が?」
「紫月さまだな」
言って右近は両手を頭の後ろに組んで伸びをした。そして、なんとも言えない顔で目尻を下げる。
「元気そうで何よりだ。心配して損した」
一方、佐一はさらに驚いた顔で右近に尋ねる。
「紫月さまと言うのは、月詞の歌い手だったんですか?」
「ああ、そうだ。内緒だぞって言いたいところだけど──、これでもかってくらい堂々と歌っているな」
「まだ歌い手がいたなんて……」
みるみる佐一の顔が高揚していく。喜びをあまり表に出すタイプには見えなかったが、彼の目が希望に満ち、輝き始めたのが右近には見て取れた。
しかし彼は、右近の視線に気づくと、さっと目を伏せて頬を引き締めた。
そして口の端にわずかな笑みを浮かべる。
「右近さん、行きましょう。きっと話し合いは上手く行く。あなた方は大きな切り札を持ってきた」
「……姫さまのことかい?」
つと右近が不満げに片眉を上げる。佐一がこくりと頷いた。
「水天狗たちにとって、あの歌は恵みの雨にも等しい」
「そんなつもりで碧霧さまは連れてきた訳じゃない。碧霧さまは、紫月さまを交渉の材料にはされないと思う」
「いいえ、」
佐一が力強く否定する。
そして歌声のする方へ遠い視線を向けた。
「だってもう、歌っているじゃないですか。川面に石は投げられた。波紋は止めれませんよ」
右近が承服しかねる顔で嘆息した。そんな彼女の耳に、逆立つ心をなだめるかのように柔らかな歌声が届いた。
紫月は優しい雨が岩肌を打つ中、香古を抱き抱えるようにして窓辺に体を乗り出し歌を披露した。
雨粒が歌声に反応し、きらきらと煌めく。香古が元気な眉をぶわっと上げて、「わあっ」と感激の声を発した。
「
「これは、うーん……」
雨垂れの歌? しとしと雨の歌?
彼女の歌う歌に題名はない。
確かに
それは、彼女が誰にも教わることなく
そこにあるのは、ただただ自然との対話である。
歌うためには、どれだけ対象とする気と同調できるかが要となるのだが、対象が大きくなればなるほど同調も難しく、歌うことは困難となる。
師匠である藤花も、遊び歌のようにいろいろ歌ってくれた。そして、月詞は本来そうあるべきだとも教えられた。
天を讃え、地を謳う、全ての生きとし生けるものに捧げる
この歌は、誰のものでもないのだ。
すると雨の中、色鮮やかな民家の間を通り抜け、黒ずくめの格好をした二人の鬼が見張り番の天狗に連れられ岩城に続く坂道を上がってくる。
その見覚えのある容貌に、紫月は思わず大声で呼びかけた。
「右近ーっ、どうしてここが分かったのおー??」
雨の中、紫月の声が響いた。
アメジストのペンダントが紫月の胸元で無邪気に揺れる。
こりゃ、碧霧さまに言われたことを完全に忘れているな。
わりと思いが一方通行だなと、右近は自分の
「……ほんと、思った以上にのびのびやってますね、姫」
右近が腰に手を当て、呆れた様子で紫月を仰ぎ見た。
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