7.歪んだ誤解

 碧霧が佐一の派遣を決めたその頃、岩山がっさん霞郷かすみのごうの岩城では、短時間で紫月が清水を持ち帰ったことに誰もが驚いていた。


「紫月さん、湯桶にこんないっぱいの清水をどうやって?」


 妃那古が「信じられない」と、桶の中でたぷんと波打つ清水を眺める。一緒に行った真比呂もうまく説明できないのか、紫月の隣で肩をすくめるばかりだ。


「さあ、元気な天狗は手伝って!」


 紫月が遠巻きに様子を見ている天狗たちに声をかける。そして、別の湯桶に薬と清水を入れて、どろりと混ぜ合わせた。

 それを適当に小皿に分け、半ば強引に戸惑う天狗たちに押しつける。


「じゃあ、みんなで手分けして傷口に塗っていって」

「こんな気休め──」

「生える時が大変なんでしょ? だったら少しでも楽に過ごして体力を温存させなきゃ。ぐだぐだ言ってないでさっさとやる! 妃那古が一番テキパキしてるわ」


 ぴしゃりと紫月に言い返され、天狗たちはぐっと言葉に詰まる。

 すっかり陣頭指揮をとっている目の前の鬼は、確か交渉を有利に進めるために、わざわざさらってきた質のはずだ。


 それがなんで、こんなに偉そう?


 納得のいかない顔で頭目の真比呂を見れば、真比呂に「俺にもさっぱり」といった顔で返された。

 しぶしぶ天狗たちは薬皿を片手に広間の方々へと散っていった。


 紫月もうつ伏せになった大柄の男天狗の前にひざまずくと、背中の傷口にそっと薬を塗りつけた。ようやく血が止まった生々しい傷口は、触れることさえ躊躇ためらわれる。

 紫月が傷口に触れると、頭の下で組んでいた両腕がぴくりと動いた。


「ちょっと我慢してね。この塗り薬には痛み止めも入っているから、ひとまず楽になると思う」

「ふん、こんなことをしなくても耐えられる。余計なことだな、一つ鬼」

「紫月よ。あなたは?」


 辛そうな声で強がりを言い返してくるのは、与平に両翼を切り落とされた大柄の水天狗だ。名前を尋ねると、「勇比呂いさひろだ」と素っ気なく答えてくれた。

 真比呂といい、この勇比呂といい、なんだかんだと言いながら名前をちゃんと答えてくれるあたり、律儀な性格が伺える。


 勇比呂は、顔を前に向けたまま、げじげじの眉を痛みで歪めつつ紫月に言った。


「おまえ、姫君かなんだか知らねえが、要は伯子の情婦だろ。災難だったな、こんなところに連れてこられて。一つ鬼の扱いも酷くなったもんだ」

「それ、気遣ってくれてるの? それとも喧嘩を売ってるの? 情婦じゃないし」


 言い返しながら、伯子が沈海平しずみだいらへ来ていると知っていることに内心驚く。誰が反乱軍の鎮圧に向かうかは、公にはなっておらず、鎮守府にしか伝えていないはずだ。


「伯子は──、葵はあなたたちと話し合いをするために来たのよ」


 しかし勇比呂は、「はんっ」と鼻を鳴らすと馬鹿にするように笑った。


「反乱軍の鎮圧に女を連れてくるんだぞ。遊びに来たと思ってるに違いねぇ」

「あのね、」


 紫月はわざと乱暴に薬を傷口に塗り込んだ。勇比呂が「いでっ!」と小さな悲鳴を上げる。


「あなたのその言葉は、葵だけじゃなく私も──、全ての女を馬鹿にした言葉だわ。女は男を悦ばす以外に能がないとでも思ってる?」


 不快極まりないといった口調で紫月が言い返すと、さすがの勇比呂もバツが悪かったらしく、むすっと口をつぐんだ。

 そんな勇比呂の様子を見ながら紫月は小さいため息をつく。


 そうか、女が一緒に来たというだけで、こんな歪んだ風に見えるんだ。


 碧霧のことをちゃんと知っていたなら、きっとこんな風には言わないはずだ。

 相手を知らないとは、なんて誤解を生むのだろう。


「まずは仲良くならないとね」


 誰に言うともなく呟くと、勇比呂が「あん?」と不機嫌そうに顔をしかめたのが分かった。


「誰が無刀の王の息子なんざと仲良くなれるもんか」

「無刀の王……」


 碧霧の父親のことだ。

 今の伯家が、元伯家に伝わる宝刀を持っていないことを揶揄やゆしている。

 つまり、「偽物の鬼伯」だと言っているのと同じだ。


(葵は、会ったこともない相手にこんな理不尽な敵意を向けられているのか)


 紫月は、なんだかとても悔しかった。


 彼がどんな思いでここに来たかも知らないで。


 しかし、くよくよなんてしていられない。これは全て、知らないことで起きている誤解だ。

 彼女はあえて元気良く勇比呂に言った。


「あら、きっと仲良くなれるわよ。とりあえず私から。今日はこれから長いでしょ。よろしくね、勇比呂」


 勇比呂が「勝手にしろっ」と組んだ両腕の中に顔をうずめた。




 それから紫月は、全ての負傷者の手当を終えて、食事を取ることにした。

 すでにお昼を過ぎている。朝から何も食べていないのでお腹がペコペコだった。


 妃那古に二階の食堂へ案内され、紫月は朝御飯だか昼御飯だか分からない食事をごちそうになる。

 百人は入りそうな広い食堂は、テーブルと椅子が部屋の隅から隅まできっちりと並べられていた。ここで反乱軍は共同生活をしているのだろう。


 妃那古が用意をしてくれたおにぎりは、パラパラな米であるのに味付けがしっかりされていて、まろやかで美味しい。聞けば、ごま油と醤油で炊き込んだものを握ったそうで、紫月はそれを五つも平らげてしまった。


 妃那古は、鎮守府に近い奈原という里で茶屋をやっていたと言う。今は父親もおらず、反乱軍と一緒にこの霞郷かすみのごうに身を寄せているとのことだった。


 それから、二人は広間に戻り負傷者たちの様子を確認した。

 薬が効いてきたのか、すでに静かに寝入っている者もいる。


「寝てますね」

「うん。薬が効いて良かった」

「後は私が見てますから、紫月さんも休んでください。こんなところに連れてこられて、きっと寝ていないでしょう? 部屋を──」


 心配そうな顔をする妃那古に紫月は両手を振って遠慮する。


「大丈夫よ。みんなを放って部屋で休むなんて、落ち着かないわ。それより──、あそこの隅でちょっと横になるわ。今日はこれから長くなりそうだもの」

 

 それで紫月は、部屋の隅で少しの間、休むことにした。

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