2.府官長の養女と養子
府官長がにこりと碧霧に笑いかけてから、丸い体を捻って廊下に声をかけた。
「おい、お茶を」
「はい」
廊下で可憐な声が響いた。刹那、侍女を従えた一つ鬼の娘が静かに部屋に入ってきた。
彼女は碧霧の前にやって来てお茶と菓子を置くと、そのまま平八郎の位置まで下がり平伏した。
他の侍女たちは、与平たちにも同じように茶菓子を振る舞い部屋を出ていく。
そして侍女たちの気配がなくなってから、平八郎が口を開いた。
「伯子、宴の準備をしております。南の食べ物も酒も初めてではないですかな? この日のために珍しい物も用意させました」
「この非常時に──?」
「反乱軍の鎮圧など、我が息子に任せておけば良いのです。それに、ほら、」
言って平八郎が隣に控える一つ鬼の娘に「顔を上げろ」と促す。
娘が
小さな目に小さな口の控え目な顔。いわゆる慎み深い良家の姫といった容貌である。
大きな目で、力強く笑う紫月とは対称的だな、と碧霧は思った。
平八郎が言葉を続ける。
「こちらは、養女の加野と申します。先ほどの話をした佐一の姉にございます」
「養女──」
「はい。どうですかな、伯子の夜のお相手に」
「は?」
顔にべったり貼りつけていた「社交辞令」という面に、ピリシとヒビが入ったのが自分でも分かった。
府官長が慌てた様子で大仰に両手を振る。
「いや別に、深い意味はありませんぞ。姫が
「おまえは、養女とは言え自分の娘を慰み物として差し出すのか?」
「私は気に入っていただければと思っただけにございます」
怒り出した碧霧を見て、平八郎と加野は真っ青になりながら平伏する。
その時、
「ご厚意はありがたくいただきましょう」
隣に控える与平が静かに言った。
思わず目を見開いて与平を見やると、彼の厳しい目が返ってきた。
つべこべ言わずに受け入れろ──。その目が、そう言っていた。
碧霧はあらためて加野を見る。
感情というものが、いっさい抜け落ちた顔。そこからは彼女の気持ちを読み取ることはできない。
そうだとしても、本人が望んで床相手を務めたいと思っている訳ではないことは想像に難くない。それでもこの場に出てきたのは、断ることができない事情があるからだ。
(ここで俺が断ったら……)
府官長は、平気で養女を慰み物として差し出すような男だ。そんな男の面目を潰したとあっては、「役立たず」と罵られ、きっと酷い仕打ちを受けるに違いない。
この空気に同調するしかない自分自身に吐き気がする。
碧霧は膝の上でぐっと両手を握り締めた。
再び、隣の与平が碧霧に代わって淡々とした口調で言った。
「碧霧さまは、昨日からの強行軍でかなりお疲れだ。申し訳ないが、宴は遠慮させていただきたい。碧霧さまの身の回りの世話は加野殿に。佐一殿はすぐにでも呼んでいただけるか。反乱軍の現状を聞きたい」
「分かりました。では、そのように手配いたします。佐一は、すぐに呼んで参りましょう。離れのことも分かるので、そのまま奴に案内させます。今しばらくここでお待ちください」
平八郎が満足げに笑って答える。そして彼は、養女を引き連れそそくさと部屋を出て行った。
府官長が去って四人だけになり、まず口を開いたのは右近だ。
「くっだらない! 早く紫月さまを探しに行きましょう。私がもう少し周囲に目を配らせていれば──。あのまま奴らを追いかけても良かったのに!」
右近が居ても立ってもいられないという口調で中腰になる。
紫月が連れ去られたことに責任を感じているらしい。
「落ち着け、右近」
兄が年長者らしく妹をなだめる。しかし、彼女のイライラは収まらない。
「だいだい、あの府官長にしたって、碧霧さまに取り入ろうってのが見え見えじゃないか。平気で養女を差し出すなんて──、何を考えているんだ?!」
忌々しげに言って、
「おそらく、加野という娘は養女と言いながら、あの男の手が付いているかもしれませんな。紫月さまのことにしても、情婦を連れてきたぐらいにしか思っていないのでしょう。姫が拐われたと聞いて、慌てて娘を差し出すことを考えついたのでは」
与平も不快感を露にしつつ嘆息する。
「ま、その可能性は高いな。碧霧さまの手が付き、側室になれば小梶殿は伯家と縁戚となる。万が一、そのまま子でも出来てみろ。どちらの子か分からんぞ」
右近が「はあ?」と絶句した。
碧霧も、左近や与平のあまりの言い様に、飲みかけたお茶を口からこぼしそうになった。
「俺、手を付けないし!!」
「だから、」
「可能性の話です」
与平と左近が冷ややかな口調で返す。しかし、二人はいたって確信的な表情で、それがまったくの妄想だとは言いきれないのだと碧霧は感じた。
紫月や水天狗のことで頭がいっぱいだって言うのに──。
内憂外患とはこのことだ。
碧霧は大きなため息をついた。
その時、
「失礼します」
張りのある若々しい声が響いた。
碧霧たちがピタリと会話を止めて廊下に目を向けると、そこに一つ鬼の若者が緊張した顔で立っていた。
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