5.碧霧の父

 鬼伯との謁見の場所は奥座敷となる。


 紫月は長い廊下を碧霧に手を引かれて進んでいく。本来ならこれも駄目だ。

 面倒なしきたりで言えば、伯子の後ろを控えめについて行くのが姫君としては正しい。しかし、それだと彼の背中しか見えない。

 こうして碧霧の横顔を見ながら進むことができるのはとても心強い。彼は、ちゃんとこちらの不安も分かっていて、その上でこうして歩いてくれている。


 呼びに来た侍女は、姫君の手を握る伯子の姿に一瞬顔をしかめた。が、碧霧が平然と歩き出したので、不満な顔はしたものの、それ以上は何も言わなかった。


 あらためて碧霧が伯子であることを紫月は実感する。そして、その気になれば、侍女衆を力任せに黙らせることができるということも。


 しかしそれでは周囲と不協和音を起こしてしまう。今は何も言われなくても後から小野木に碧霧が怒られるかもしれない。

 怒られるだけならまだいい。自分のせいで碧霧が伯子としての信頼を失ってしまうのではと、紫月は少し心配になった。


 しばらして廊下を曲がると、最も奥の部屋の前、近習らしき若手の鬼が入り口の両側に座っているのが見えた。

 碧霧がすっと手を離し立ち止まった。そして振り返り、気遣う様子で紫月を見る。


「紫月、大丈夫?」

「大丈夫。少し緊張してるけど」


 本当は少しどころか大いに緊張している。でも、これ以上は心配をかけたくないし、自分が踏ん張るところである。

 紫月が笑顔で答えると、碧霧が笑顔で頷いた。

 碧霧が再び歩き始める。その後に紫月が続く。

 二人は、とうとう奥座敷の前に来た。


「父上、碧霧です」


 座敷の奥に向かって碧霧が声をかけると、「入りやれ」と千紫の声が返ってきた。

 碧霧が堂々とした所作で中へと進み入り、紫月は彼の後を控えめな所作で続いた。顔は上げず、上座を見ないよう注意する。誰かが座っている気配はするが、その姿を確かめることはできない。


 部屋の中央あたりまで来て、碧霧がさっと胡座あぐらをかいて腰を下ろした。紫月は彼の右斜め後ろに静かに座った。

 視線はまだ伏せたままだ。顔を上げていい許可が出るまでは、じっと畳の目を見つめるのみだ。


「碧霧、沈海平しずみだいらよりただいま戻りました」


 碧霧が落ち着いた声で上座に向かって帰還を告げる。それに合わせて紫月は両手をついて頭を下げた。

 刹那、


「おまえが兄者なしの娘か」


 碧霧の言葉を全く無視して、低く威圧的な声が部屋に響いた。


(え──?)


 まさかいきなり声をかけられるとは思わず、紫月は俯いたまま息をのむ。

 そして、静まり返った部屋の中、その声が命令した。


「何か歌ってみろ」 


 にわかに彼女は動揺する。

 沈海平しずみだいらの反乱の顛末を、まずは聞かれるものだと当然ながら思っていた。そのために碧霧は沈海平へ行ったのだから。

 水天狗たちの反乱を武力ではなく話し合いで解決し、赤鉄で弱った土地を元に戻すべく道筋まで立ててきたのは言うまでもなく碧霧の功績で、自分たちは今、その報告をするためにここにいるはずだ。

 それなのに、息子に対する労いの言葉も一切なしに、いや、息子の「帰ってきた」という言葉さえ無視して、目の前の声は何を言った?

 

 異質──。


 紫月が、とにかく一番に感じたことだった。

 冬だというのに、紫月の体はじりりと汗ばんだ。

 強張る紫月の頭の上に威圧的な声がさらに降りかかった。


「聞けば、月詞つきことを歌えるらしいな」

「は、はい」

「誰に習った?」

「……物心ついた頃には好きに歌っておりました。母がそれは月詞だと言うので、そう思っているだけで、私にとってはただの歌にございます」


 藤花のことはあえて言わない。稽古はつけてもらっているが、一人で勝手に歌い出したのは嘘ではない。

 碧霧から言われたことは、余計なことは話さず、逆らわず、とにかく答えることだ。

 声の主が「ふん……」と鼻を鳴らした。


「まあいい。ならば、風の御詞みことでも歌ってみせろ」

「……」


 思わず紫月は押し黙る。「月詞を」と言われた。

 心が、違うと叫んでいる。この歌は、決して見世物なんかじゃない。


 紫月が俯いたまま黙っていると、不機嫌な声が耳たぶを打った。


「碧霧には歌うのに、儂には歌えないと申すか」

「私は──」


 声が震えた。

 でも、譲れない。


 紫月はすっと顔を上げると、上座中央を見る。金糸の刺繍がほどこされた派手な羽織を身にまとい、立て膝をして横柄に足を崩した二つ鬼と目が合った。

 碧霧の面影を感じるその鬼は、彼とは全く違う空気をまとっている。冷ややかで傲岸な目も、穏やかな彼のそれとは似ても似つかない。


 そして紫月は声を出す。自身の心を言葉に乗せて。

 緊張で、喉の奥がひりひりと痛むのを感じながら、彼女はゆっくりと鬼伯旺知あきともに対して口を開いた。


「私は、誰かのために歌っている訳じゃない。月詞つきことは、天地あまつちと私たちとを繋ぐ言葉。誰のものでもない。沈海平で歌ったのは、大地がそれを求めていたから。そして、その道筋を葵が立ててくれた」


 ぴくりと、旺知の眉が動いた。不機嫌なしわが鼻に寄る。


「……不遜な物言いは、母親譲りだな」


 押し潰されそうな低い声。たぶん、きっと、怒らせた。


 旺知の隣に座っている千紫は、すでに顔色を失くして緊張した面持ちで夫の様子を見ている。斜め前に座る碧霧の顔は──、よく分からなかった。


 しかし、それでも紫月はその大きな瞳を瞬かせ、真っ直ぐ旺知を見返した。


「私は、天地あまつちのために言葉を紡ぐ。それ以上でもそれ以下でもない」


 鈴の音のような彼女の声がりんっと響いた。


 しんと静まり返る部屋、鬼伯の顔からすっと感情の揺れが消え失せた。

 そして彼は、紫月を見据えながらおもむろに立ち上がった。その冷え冷えとした眼差しに射抜かれて、彼女は動けなくなる。


 その時、


 深い赤銅しゃくどう色の背中が紫月の視界を遮った。

 碧霧が彼女を背中に隠すようにして、二人の間に割って入った。

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