4.紫月、ヘソを曲げる

 深みのある赤銅しゃくどう色の小袖ににび色の袴姿──、突然の伯子の登場にその場にいた侍女たちがさっと居ずまいを正して頭を下げる。本来なら、紫月もきちんと座って彼を出迎えないといけない。しかし、さっき小野木とやり合ったこともあって、紫月は立ったまま仏頂面を碧霧に投げつけた。


 案の定、小野木が冷ややかな声で「お座りくださいませ、落山の姫」と注意してくる。紫月が聞こえないふりをすると、それを見ていた碧霧が苦笑した。

 そして彼は、困った顔で紫月の元へ歩み寄り、彼女の手を取った。


「母上も俺も、紫月の素のままの話し方は大好きだけど──、小野木の言っていることが全く分からない訳でもないだろ」

「私は……そのままの気持ちを言葉にして話したいの」

「分かっている」


 月詞つきことを歌う彼女にとって、言葉は心の欠片そのものだ。だからこそ、自分の言葉を大切にするし、ありのままで話そうとする。

 しかし、奥院ではそうはいかない。ここでの言葉は互いの立場や身分を区別するための手段でもある。一人一人が分をわきまえ、それに応じた立ち振舞いを求められる奥院では、互いの立場を明らかにすることは重要なことだ。小野木は、そうした奥院の秩序を乱すなと言いたいのだろう。


 そして、紫月はこのことを十分に理解できると碧霧は確信している。

 なぜなら、お互いに素性も何も知らなかった頃、曲坂まるざかで一度だけ彼女が姫君らしい所作を見せたことがあった。

 つまりは、やればできるということで、あの里一の美女と謳われる落山の方が、娘に何も教えていない訳がないのだ。


「紫月、鬼伯に対してまでその話し方は駄目だ」

「そんなの分かって──」


 いる、と言いかけて、残りの言葉を紫月はとっさに飲み込む。碧霧が諭すような目をずっとこちらに向けているからだ。

 彼女は戸惑いがちに目をさ迷わせた後、碧霧にこくりと頷いた。

 碧霧が満足な顔で優しく笑う。彼は、雪乃をはじめとした侍女衆に言った。


「父上のお呼びがあるまで紫月と二人でいたい。ここはもういい」

「かしこまりました」


 侍女衆が深々と頭を下げる。彼女たちは手早くお着替えの後片づけをすると、そのまま何事もなく部屋を出ていく。途中、小野木のすました横顔に紫月は無性に腹が立ったが、込み上げる怒りを押さえて見送った。


 ようやく二人きりになって、碧霧が紫月をその場に座らせて自身も座る。そして彼は、彼女をそっと抱き寄せた。


「小野木は古参の侍女で、いろいろ苦労しているから昔のしきたりに特にうるさい。かつてここを守っていた一つ鬼の侍女衆に侮られないよう頑張ってきたからな。それなりに意地があるんだよ。小野木には母上も全幅の信頼を置いている」


 政変前、ここ奥院も一つ鬼が支配する場所だった。それが三百年前にいきなり立場が逆転し、当時の二つ鬼の侍女たちに求められたのは、一つ鬼以上にふさわしく振る舞うこと。旺知の謀反による伯座略奪を正当化するためにも必要なことだった。


 言葉遣い、立ち振舞い、一つでも間違えれば、「やはり下賎の二つ鬼は分かっていない」と揶揄やゆされる。旺知の怒りを買って、放逐されたり酷い仕打ちを受けたりすることもあったと聞く。古参の侍女たちが、かつての因習に強いこだわりをみせる理由は碧霧も十分に理解しているつもりだ。


 だからこそ、小野木を責めることはできない。でも、紫月の気持ちも分かる。となると、後は謝るしかない。

 碧霧は、自分の腕の中でむすっと機嫌を損ねている姫君の髪を優しく撫でた。


「紫月、ごめん。ただでさえ疲れているのに」

「そうね、いろいろ疲れたわ。早く帰って寝たいわね」

「……今日、帰るの?」

「だって、ここじゃゆっくり休めないもの。寝返りの打ち方さえも文句を言われそう」

「散々な言いようだな。俺、一応ここに住んでいるんだけど?」


 言って碧霧は紫月の顔を覗き込み、彼女に口づけた。柔らかな唇の感触が、昨日の情熱的な夜を思い出させる。今夜もできれば二人で過ごしたい。

 さすがに疲れているから、二人で眠るだけでもいい。それでも、旅の疲れが吹き飛ぶはずだ。


「一緒にいたい。紫月は?」

「……いたいけど、ここ以外の場所がいい」


 また難しいことを言う。奔放な姫君はすっかりヘソを曲げてしまった。

 碧霧はやれやれと嘆息した。


 その時、廊下で声がした。


「伯子、失礼いたします。鬼伯がお会いになられます」

「分かった。紫月、行こう」


 碧霧が立ち上がって紫月を促す。彼女は静かに目を閉じて深呼吸を一つすると、次の瞬間、ぱっと大きく目を開いた。

 意思の強さを感じさせる深紫の瞳を瞬かせ、紫月はゆっくりと碧霧を見上げる。


「聞かれたことに、大人しく答えていればいいのね?」

「そう、それでいい。余計なことは言う必要はない」

「分かったわ。言い争いも疲れるからそうするわ」


 言って彼女は勝ち気な笑みを浮かべ立ち上がる。小野木との一件を反省している様子は──、全くない。

 どちらかと言うと、この顔は気だ。


(先が思いやられるな)


 彼女らしいと言えば、そうなのだけれど。

 後はせめて、父親との謁見が少しでもつつがなく終わることを祈るしかない。

 碧霧は心の中で大きく嘆息しつつ、紫月の手を握る。彼女がはにかみながら力強く握り返してきた。

 その笑顔がさらに碧霧の不安を掻き立てているなんてことは、当の本人はまったく分かっていない様子である。

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