6.最低、最悪の男

「紫月が怖がっている。やめてくれ」


 言って碧霧は立ち上がり、父親と対峙する。旺知が口の端を皮肉げに歪めた。


「怖がっているようには見えないがな。儂に対する口のききかたを知らんらしい」

「彼女は俺の妻となる姫だ。彼女に頼みたいことがあるのなら、まず俺を通せ」

「妻、」


 旺知が鼻で笑った。その冷ややかな視線が、碧霧の後ろで身を固くする紫月に突き刺さる。


「そんなことを許した覚えはない」

「自分の伴侶ぐらい自分で決める。父上に許しを乞うつもりもない」

「認めん」


 あっさりと言い捨てて旺知は呆れた様子で首を傾げた。


「この娘は、ただの宵臥よいぶしだ。体が気に入ったというのであれば、抱きたい時に呼びつければいいだけだ。母親に似て見栄えもする。確かに飾り物にはちょうどいい」


 侮蔑を含んだ父親の言葉に、碧霧がかっと目を見開いて旺知を睨んだ。

 仮にも自分が「妻にする」と言った姫をなんだと思っているのだろう。

 彼は震える声を絞り出した。


「紫月に──謝れ」

「何に対して? おまえも似たような考えだと思ったが?」


 旺知は含みのある目を息子に返しつつ、皮肉げに口の端を歪めながら紫月に言い放った。


「娘、碧霧こいつの女癖の悪さは知っておるのか?」

「……え?」

「こいつの女関係について知っているかと聞いている」


 またしても、紫月は予想もしない話を旺知から振られ混乱する。

 自分が初めての女ではないことぐらい分かっている。悔しいくらい女の子の扱いが慣れているし、右近も「うちの若さまは手が早い」と言っていた。

 しかし、「知っているか」と聞かれれば、答えは「知らない」だ。彼の立場や穏やかな性格から、ぼんやりとモテるんだろうなと思っていた程度だ。

 にわかに戸惑いの表情を見せる彼女に対し、旺知がせせら笑った。


「それこそ、数多あまたの女をあちこちで食い散らかしておったぞ。どのような甘い言葉を耳元で囁かれたかは知らんが、所詮はおまえもその一人に過ぎん。伯家のために歌い、伯家のために足を開くのが宵臥であるおまえの役目よ」

「父上っ!」

「嘘は言ってはおらん。春頃に摘まんだ歌上手の七洞の姫はどうした? おまえに会えるのを待っているのではないのか? 七洞利久の自慢の娘だったからな。あれはそれなりに噂にもなった」

「なっ、何を今さらそんな話──」


 思わず言葉に窮する碧霧を尻目に、旺知は喉の奥をくつくつと笑いで鳴らす。そして傲岸な眼差しを容赦なく紫月に向けた。


「娘、つまりはそういうことだ。先程、おまえは『碧霧が月詞つきことを歌う道筋を立てた』などと言っていたが、要は歌と体を碧霧に求められ、それを差し出したと言うことであろう? 他の女と何も変わらん」


 最後は失笑にも似たため息を漏らし、旺知が部屋を出て行く。すでにその顔は息子たちに興味を失くしている顔だ。

 千紫が素早く立ち上がり、二人の元へ歩み寄った。まずは紫月に声をかけようと口を開きかけ、しかし、千紫は何も言うことができずため息を吐いた。

 そして彼女は、息子に自業自得だと言わんばかりの視線を投げて、そのまま部屋を後にした。


 広い部屋に二人残され、重苦しい空気が碧霧と紫月を覆う。

 結局、旺知が沈海平しずみだいらについて息子から何かを聞くことはなかった。


 父親とのまともな会話など、最初はなから期待していなかった。月詞のことを問われることも、妻として認めてもらえないことも、ある程度は予想していた。だから、喧嘩をしてでも言いたいことを言い返し、彼女を庇うつもりだった。

 でもまさか、相手にさえされず、彼女の前で他の女のことを言われるなんて。


「紫月、」


 碧霧は、俯く紫月に声をかけた。彼女は呆然とした面持ちで視線をあちらこちらにさ迷わせ、膝の上で両手をぎゅっと握り締めていた。


 とにかく「嫌な思いをさせてごめん」と謝らなければいけない。いや、それとも、「七洞の姫は関係ない」と言うべきか、「紫月だけは違う」と言うのが先だろうか。


 しかし、碧霧が次の言葉を発しようとする前に、紫月がすっと立ち上がった。 


「帰るわ」

「え? あっ、ちょっと──!」


 くるりときびすを返して歩き始める彼女を碧霧は慌てて追いかけた。


「待って、紫月」

「……数多あまたの女って誰?」


 顔は前を向いたまま、歩みも止めず紫月が吐き捨てるように問う。にわかに碧霧は答えられない。

 紫月が呆れたように笑った。


「ああ、そうか。いっぱいいるから、すぐには答えられないわね。でも、歌上手の七洞の姫は覚えたわ」

「紫月、話を聞いて──」


 碧霧が引き止めようと手を伸ばした。刹那、その手を紫月がぱんっと振り払った。


「触らないで。信じらんない、最低、最悪」


 くるりと碧霧に向き直り、紫月は鋭く彼を睨んだ。こちらの言い分も聞こうとせず、一方的に怒り出した彼女に、碧霧はもどかしそうに眉根を寄せる。


「紫月に言ったことは嘘じゃない。紫月だけは違う。本気なんだ」

「本気!」


 碧霧の言葉尻を紫月は繰り返した。そして皮肉げな笑みを浮かべる。


「じゃあ今までは遊び? 遊びで、ああいうことを他の女としてたってこと? どちらにしろ、ひどい話ね。それで私だけは違うなんて──、そんな特別はいらないわ」

「特別とか、誰もそんな話をしていないだろ」

「じゃあ、どういう話なの?」


 言葉を吐き捨て、彼女はふいっと顔をそらすと、そのまま足早に歩き始めた。碧霧が慌てて呼び止めても、紫月はもう止まらなかった。


 紫月は逃げるように廊下を進む。奥院は広すぎて、どこから来たかも分からなくなっていた。それでも彼女は当てずっぽうにとにかく歩いた。外に出られるのであれば、それが勝手口だろうが裏口だろうがなんでも良かった。

 碧霧が黙ってついてくるのが鬱陶うっとうしい。でも、もう知らない。絶対に振り返ってなんかやらない。


 あちこちと歩き回り、明らかに雰囲気の違う区画が見えてきた。執院だ。


「紫月、送っていく。一人で帰れないだろ」

「ほっといて。御座所おわすところを出たら、吽助を呼ぶわ」


 とは言え、この執院もうんざりするほど広い場所で、出口がどこだか分からない。

 南側に門があるはずだから方向としては間違っていないはずだ。仮に迷って一晩中歩き回る羽目になっても、紫月は碧霧に頼るつもりはなかった。


 と、いくつかの角を曲がったところで、紫月は出会い頭に向こうからやって来た鬼にぶつかった。

 相手のたくましい胸板に容赦なく顔を突っ込み、鼻頭を打ちつける。


「わぷっ!」

「紫月さま?」


 跳ね返り、よろめく紫月の体を碧霧とはまた別の大きな手が支えた。痛む鼻をさすりつつ顔を上げると、そこに与平が立っていた。

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