5.急襲

 ほんのわずかな休憩の後、碧霧たちは出発した。


 今度は川の流れに沿って、水上を走る。

 迷い道を歩き続け、この広い古閑森こがのもりの中で目印となるような場所に出ることができたのは、本当に幸運だった。


 しばらく進むと、両側が切り立った崖に挟まれた峡谷に一行は入った。四列では狭すぎて進めないので、与平の合図一つで隊列が流れるように二列に組み直される。


「本当に無駄がなくて早いな」


 碧霧が感心しきりに言うと、彼の隣を走る左近が「三番隊長の訓練の賜物です」と笑った。すぐ後ろには紫月と右近がついて来ている。

 辺りはすっかり明るくなり、雲の合間から覗く朝日に照らされ、眼下の流れる川の水が朱色に光る。しかし、遠くの南西の空には灰色の雲が広がり、天気が崩れてきているのが分かった。

 その曇天が自分たちのこれからを暗示しているような気がして、碧霧はふと弱気になる。


 話し合いが不調に終わったら? 戦いになり誰かを失うことになったら?


 碧霧はぐっと奥歯を噛み締め、自身を鼓舞する。

 大丈夫、このまま入府できる──。水天狗たちもこちらの話に耳を傾けるはず。

 そう自分に言い聞かせ、碧霧が手綱を握り直したその時、


「葵、与平さん! 取り囲まれてる!!」


 背後で紫月の緊張した声が響いた。


 と同時に、大きな怒号とともに崖の上から水天狗たちが降りかかってきた。


 刹那、与平が素早く片手で合図を出す。

 一瞬の内に隊列から副隊長格の数人が離脱した。


「敵襲! 各班、散れぃ!!」


 隊士たちが隊列を崩し、先頭を行く碧霧たちを取り囲むように展開する。

 そんな中、与平がさらに馬の速度を上げた。


「このまま突き進みます!」


 碧霧は与平に頷き返しながらちらりと左右に目をやった。

 上空から水紋柄の白装束をまとい深緑色の翼を広げた水天狗たちが武器を片手に群がり飛んでくるのが分かった。


 両者のうなり声が地鳴りのように峡谷にこだました。ガキッという鈍い音とともに、三番隊の鬼たちが上空から襲いかかる水天狗の刃を受け止める。


 ずんとした圧力を碧霧は全身に感じた。


「碧霧さま、振り返らず前へ! あそこだ、地下道の門だ!!」


 与平が崖の壁面を指差す。岩肌の何もない壁に二本の松の木が向かい合って生えていた。

 まるで門さながらだ。

 しかしそこは、奥へと通じる道があるわけでもなく、はただの絶壁である。


 本当にあの奥に道が?


 先頭を走る与平が懐から木札を取り出し口にくわえる。門を開けるための札だ。

 刹那、大きな薙刀なぎなたを持った大柄の水天狗が与平の行く手を塞ぐように急降下してきた。


「逃がすかあっ」


 水天狗の男が薙刀なぎなたを振り下ろす。

 与平が無言のまま、その眼に殺気をぎらりとはらませた。そして、次の瞬間には敵がくり出す薙刀をかいくぐって背後を取ると、その両翼を一気に切り落とした。


「があっ」


 呻き声を上げながら翼を失った水天狗が落ちていく。

 碧霧の背後、紫月が「あっ……」という悲鳴のような声を上げた。


 しかし、敵を心配している余裕などない。四方八方から、激しく斬り合う音が響く中、碧霧は振り返らずひたすら前を見つめた。


 目指すはただ一つ。地下道への入り口のみ。


 与平が壁にできた門にたどり着いた。彼が素早く木札を壁に押し付けると、今までただの壁面でしかなかったそこに、大きな洞穴が現れた。


「地下道です。碧霧さま!!」


 隣で左近が吠えた。


 その時、一対の翼がものすごい速さで頭上を掠め飛んだ。

 新手の水天狗──。

 思わず碧霧が空を仰ぎ見る。と、背後の紫月がすくい上げられたのとが同時だった。


「きゃあああっ」

「紫月!!」


 あっという間に紫月が上空へと連れ去られていく。


「やっと会えたな。南風の女」

「あなたは──、こめかみ男!」


 深緑の髪をはらりと乱し、つるりとした青い瞳を満足げに細める。

 目を丸くする紫月に対して、彼女をすくいさらった男──、真比呂がにやりと笑った。


「紫月さま!」


 すかさず右近が馬主をひるがえし、真比呂を追って空を駆け上る。

 しかし、真比呂を庇うように複数の水天狗が行く手を阻んだ。


「邪魔だっ、どけえええっ!!」


 右近が鋭く刀を振り下ろし、水天狗の男相手に刃を斬り結んだ。

 真比呂が「ほう」と感心の声を上げた。


「女のくせに強いな。傷つけるのは惜しい」

「だったら止めて!」

「……おまえが大人しく捕まればいいだけの話だ」


 そこで初めて、紫月は真比呂の目をまともに見た。

 青い、ガラス玉のような澄んだ瞳。


 この天狗──。


 刹那、紫月は大声で叫んだ。


「ごめん、葵! ちょっと行ってくる!!」


「あはははっ。物分かりがいいを通り越して面白いな、おまえ!!」


 真比呂が紫月を抱きかかえてさらに高度を上げる。


「行ってくるって──、紫月!!」


 碧霧は彼女を追うために取って返そうとした。が、それを左近が「駄目だ!」と言って止めた。


「あなたのために皆が命をかけている! 今あなたがすることは姫を追いかけることじゃないっ。何がなんでも鎮守府へ入ることだ!!」


 かっと熱くなっていた頭が一気に冷やされる。

 そうだ。伯子である自分が外に居続ける限り、隊士たちは戦い続けることになる。

 自分の行動一つ一つが、隊全体に大きな影響を与えるのだ。


(くそっ!)


 一方で、こんな時でさえ冷静になってしまう自分自身が嫌になる。


 空を仰ぐ。紫月の姿を捉える。ほんのわずか、彼女と目が合った。

 彼女は力強く頷いて笑った。胸元でアメジストがきらりと光った。


 覚悟を決めろ。彼女の信じろ。


 碧霧は奥歯を噛み締め、腹にぐっと力を入れた。


「全員、地下道へ退避だ! 遅れるな!!」


 碧霧は馬首を翻し、一気に壁にできた洞穴へとなだれ込んだ。

 伯子の号令に鬼たちは敵をいなしつつ彼の後に続く。

 同時に、水天狗たちも撤退を始めた。まるで目的は姫をさらうことだったかのように。

 

 こうして沈海平しずみだいらの和平交渉は、両者の武力衝突と姫の誘拐という最悪の形で始まった。

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