6.名もなき師の正体
周囲の気配が静かになってから、碧霧は簡易椅子に腰を下ろした。そして、膝の上を叩いて紫月を手招きする。
「ほら、ここに座って。突っ立ていたら落ち着いて話もできない」
「……」
紫月がぽてぽてと歩み寄り、碧霧の膝の上にぽすんと座った。その表情はまだ硬い。
碧霧は彼女の髪を優しく撫でた。
「ごめん。だから機嫌を直して」
「……誤魔化さないで。最初から、そのつもりだったの?」
紫月が非難めいた口調で言った。
今まで自分がしてきたことを考えると、そう言われても仕方がない。
碧霧は丁寧に言葉を選び取りながら彼女に答えた。
「
「その直孝翁って鬼は、月詞を歌えるの? 私は、叔母さま以外には誰もいないと聞いたわ」
「東の
怪訝な表情を浮かべる紫月に碧霧が肯定した。
「紫月の月詞に比べたら、直孝
そして碧霧は紫月の両手を取った。
「危険だと思った。俺の父親は、三百年前に月詞を歌える一つ鬼を無差別に殺している。元伯家は、この力で伯座に就いていたとも聞いた。だとしたら、殺されるかもしれないし、紫月を利用しようと考える奴も出てくるかもしれない。だから、歌うなって言った」
「式神で後をつけたのは?」
「それは──」
我ながら浅はかなことをした。
どれもこれも独りよがりで自分勝手な行動だった。
ひと呼吸置いて、碧霧は真っ直ぐ紫月を見つめた。
「本当にただ単純に紫月のことが知りたかったから。だって、何も教えてくれないし」
「お互い様じゃない」
思わず紫月が苦笑する。
碧霧が「ごめん」と彼女をぎゅっと抱き締めた。
「伯子だって言ったら、きっと二度と会ってくれなくなるような気がして。それで言い出せなかった」
碧霧の胸の中、紫月はこくりと頷いて、その身を碧霧に預けた。
ああ、まただ。と紫月は思う。
碧霧といると閉じている感覚が自然と緩んで、彼の気に自分が包まれているのが分かる。
ほこほこと暖かく大きな気は、他の雑多な気を遮断してくれるのか、ひどく安心するのだ。
確かにさっきは少し風の気と同調し過ぎたと紫月は反省していた。
そして、
ふと、彼に唇を奪われた時のことを思い出す。
彼の感情が体の中へ直に流れ込んでくる感覚は、初めて知る甘美なものだった。
(真面目な会話中に、私ってば──)
紫月は急に胸がどきどきと鳴った。
一度意識し始めると、この沈黙も息苦しい。彼女はじっとしていられなくなった。
「そ、そう言えば」
紫月はすっと顔を上げて、さりげなく碧霧から離れる。
残念そうな彼の顔に、申し訳なさを感じつつも、まだこうして膝の上に座っている訳だから、それでお互い我慢だと言い聞かせた。
「さっき、ずっと
あの歌は、聞いた者にしか真価は分からない。聞いたこともない碧霧が探していたことに疑問を感じた。
碧霧が少し戸惑った表情を見せる。しかし、ふうっとひと息つくと、「紫月には隠し事はしない」と言って彼は答えた。
「昔、たまたま出会った鬼に『歌を見つけろ』と言われたんだ。なし者の鬼だった。俺の母親以上に知識を持っていて、思慮深く不思議な方だった。俺は、その方のことを『なし先生』って呼んでいた」
「なし者……」
「そう。その先生に、
「どこのなし者?」
「さあ?」
碧霧が夕闇の空を仰ぐ。
「名前も所在も教えてくれなかったからな。
そこまで言って、紫月が少し深刻な面持ちで考え込んでいることに碧霧は気がついた。碧霧が怪訝な視線を向けると、紫月は戸惑いがちに言った。
「今でも、その……なし先生とは会うの?」
「いや、数年前に会ったのが最後だ。『私はもう死ぬだろう』なんて
紫月がいよいよ難しい顔をして黙りこくる。碧霧はその顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「……それ、父さまかもしれない」
「え?」
「私の父さま。一年ほど前に亡くなった。ここ数年は体が弱って伏せることも多くて外出はほとんどしてない。いつも袴も履かずに、小袖を着流したまま。そして口癖は──、問題はそこではない」
碧霧の目が大きく見開く。
そんな、まさか。
彼の頭の中がにわかに混乱し始めた。
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