4.初めてなの?
突然、前方から歌声が聞こえた。
静かに、しかしはっきりと、澄んだ声に言葉が乗る。
まるで長い旅を続けてきた風を労るように、そして、ここまで運んで来てくれたことに感謝するように。
独特の抑揚をつけた旋律が、のびやかに響きわたる。その歌声が風と溶け合い光の糸となって消えていく。
ほぼ滑り落ちていたと言っていい馬体が、地面間近に迫ったところでふわりと浮いた。
ふうっと右近は息づく。そして不思議な光景に目を瞬かせた。
目の前では、紫月が気持ち良さそうに歌っている。
そして、彼女の不思議な歌声に呼応するかのように風が光をまとい舞い上がる。
一方、後に続く碧霧は、前方から響き始めた歌声に息を飲んだ。
「紫月!」
みんなの前で歌うなって言ったのに──!
ちらりと隣を見ると、与平が驚きの顔で前方を凝視している。
背後の鬼たちは、まだわあわあと大騒ぎしていておそらく気づいていない。
しかし、紫月がさらに声量を上げた。すでに歌うことに夢中になっている。
風が嬉しそうに紫月の前をくるくると舞うのが碧霧の目からも分かった。
「なんと、風を掌握なされた──」
信じられないと与平が呟く。
碧霧は思わず馬を駆って右近の隣につけると、手を伸ばして紫月を横からさらった。
「紫月、歌わないって約束!」
はっと、反射的に紫月が口をつぐむ。しかし、その顔はまだ
風の気と同調しすぎだ。
まさか、ここまでだなんて。
今まで聞いていた歌は、彼女にとって遊びのようなものだったのかと思いしらされる。
彼女を横抱きにしたまま、碧霧は手綱をさばいて馬を地上に着地させた。
「紫月、戻って」
そっと頬を撫でると、ぼんやりとした表情の紫月が、何かを求めるように顔を寄せてきた。
その無垢であるのに扇情的な表情にどくんと碧霧の胸が鳴った。
花びらのような唇を指でなぞり、優しく自分の唇をそこへ重ね合わせる。
それから離れて、もう一度。
碧霧は唇に自身の気持ちを乗せて紫月に深く口づけた。
「紫月、俺だよ。分かる?」
「……葵」
まだ、はっきりと定まらない表情で紫月が呟いた。しかし意識は戻ってきてくれたようだ。
にしても、
ものすごいそそられる。
これ、もう一回やっとこうかな。
周囲の目も忘れ、碧霧がそんなことを考えた刹那、紫月がぱっと目を見開いた。
次の瞬間、ばちんっと顔面を正面から叩かれた。
「わ、私のファーストキス! どさくさに紛れて何やってんのよっ、このエロ伯子!!」
「え、初めてなの? だって紫月、俺より年上だろ?」
顔の痛みより、そちらに驚いて聞き返すと、紫月は顔を真っ赤にさせた。
「そこ、別にどうでもいいし! 降ろしてっ!!」
「そうか、そうなんだ。うーん、どうしようかな」
頬の緩みを止められず、碧霧は茶化した態度を返した。紫月がさらどたばたと暴れ始めた。
「碧霧さま!」
馬上で二人が揉み合っている間に、後続隊が無事に地上へ到着し始める。
興奮気味の隊士を与平が鎮めつつ、碧霧の元へと馬を寄せた。
「紫月さまは?」
「見ての通り、元気だよ」
「では、ここからは地を走って
口早に言って、与平は部隊に命令を下すため馬首を翻す。しかし、すぐに振り返ると、彼は鋭い目を碧霧と紫月に向けた。
「歌は、もう歌いませんよう。これ以上は無用にございます」
その有無を言わせない厳しい口調に紫月の顔が曇った。
きゅっと碧霧の袖を握り不安げな表情を浮かべる彼女の髪を、碧霧が優しく撫でた。
「大丈夫、別に与平は怒っていない。多分、きっと驚いただけだ」
言って彼は、彼女をきちんと馬上に座らせた。
とは言え、与平はきっと気づいた。彼女が歌い手であるということ。
そして、
「碧霧様、今のは一体──?」
右近が複雑な顔で紫月を見つめつつ、碧霧に尋ねた。彼女もまた知ってしまった一人だ。
おそらく、と碧霧は少し離れたところで控えている左近にちらりと目をやる。案の定、彼から気遣う目を返された。
直孝
「話は後だ。今はとにかく目的地を目指そう」
右近を促し、碧霧は与平たちに合流した。
途中、休憩を何度か挟み、ひたすら地上を進むこと半日以上、碧霧たちはようやく鎮守府の手前にある
与平が部隊を制止し、目の前に広がる森を睨む。
「もう日が落ちる。森の中を進むのは危険です。目的の地点にまでは十分に着けた」
夜の森は危険であり、道にも迷いやすい。
「入り口付近で適当な場所を探し、そこで一晩過ごして、明朝、鎮守府へ入りましょう」
与平の判断で今夜は森で野営することが決まった。
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