8.奥院の珍事

 娘を見送った後、深芳は沈海平しずみだいらの遠征について千紫から説明を受けていた。


「……というわけで、碧霧が行くことになった。反乱軍の頭目は、周囲の者からの信頼も厚い若者だと聞いた。互いに戦いを避けようと考えるなら、話し合いに光も見えてこよう。とは言え、戦いも想定されるので、六洞りくどう衆から三番隊が出る」

「三番隊──。大仰だの」


 深芳の顔がにわかに緊張する。

 三番隊は六洞衆の中でも抜きん出た精鋭部隊で知られている。それが出てくるとは余程のことだ。


 加えて、深芳にとって三番隊が遠征するということは、。そんな深芳の心の内に気づいたのか、千紫が心配するなとばかりに彼女に笑いかけた。


「碧霧の出陣を重く見た重丸の配慮じゃ。今宵、三番隊長は執院に泊まる。会って話がしたいかと思い、こちらに来るよう伝えておいた。そろそろ来ると思うが、なんなら私は席を外す」

「よい。ここで我らのお喋りに付き合うほど暇ではなかろう。どうせ、つれない態度で突き放されるだけじゃ」


 その時、

 ばたばたと廊下を走る足音がした。


 一体なんだと思っていると、息を切らせた紫月が部屋の前に現れた。


「千紫さま、母さま!」

「し、紫月?!」

「おまえ、宵臥よいぶしのお役目はどうした!」


 驚く二人に紫月ははっきりと言った。


「私、家に帰るわ」


「そんな……」


 千紫が絶望的な表情でうなだれ、両手で顔を覆った。


「あの甲斐性なし! 途中で宵臥の姫に逃げられるなど、聞いたこともない!」

「違うの、千紫さま」


 慌てて紫月が否定した。


「私も沈海平しずみだいらへ行く。だから、家に帰って準備をしたいの」

「……」


 紫月の宣言に二人はさらに驚いた顔を見合わせる。ややして、千紫がすっと厳しい顔になった。


「ならぬ。遊びに行くわけではない。身の危険も十分にある」

「分かってる。でも行くわ」

「なぜ?」

「千紫さまはどうして私を宵臥に? 一晩の慰み物にするため?」


 紫月は彼女に不躾ぶしつけな質問を投げ返した。千紫がすかさず「まさか」と首を振る。


「おまえたち親子の事情や立場を考えた時、いきなり正妻としてめとることは難しかった。それゆえの宵臥じゃ。私はおまえに碧霧の支えになってほしいと思っておる」


「だとしたら、」


 力強い口調で紫月が答えた。


「私は葵の隣に立つ。葵が自分の信念のために戦うというのなら、私も彼の隣に立って同じ風景を見る。だって、支えるってそういうことでしょ?」

「紫月……」


 戸惑う千紫の横で、深芳が「ふふふ」と笑う。


「千紫、よいではないか。我が娘が行きたいと行っておるのじゃ」

「しかし、」

「このまま駄目だと言って、勝手について行かれても困る。それとも何かえ? おまえは箱の中に綺麗に収まった姫を所望か? だとすれば、残念ながら紫月はここでお役御免じゃ」


 深芳に諭され千紫は思案顔になる。ややして、彼女は静かに立ち上がり、紫月に歩み寄った。


「紫月、行ってくれるかえ?」

「もちろん」


 紫月が満面の笑みを返すと、千紫が嬉しそうに笑った。


 すると、

「失礼いたします」


 今度は落ち着いた足音と共に、一人の肩衣袴かたぎぬばかま姿の二つ鬼が現れた。

 浅黒い肌に実直そうな目、口元はきゅっと真一文字に引き結ばれている。彼はさっと戸口で片膝をつくと、頭を下げた。


「三番隊長、下野しもつけ与平にございます」

「おお、ちょうどよい。」


 千紫がちらりと深芳に目配せしてから、紫月を母親の隣に座るよう促す。そして、自らは反対側の空いた席に座って、廊下に控える男に言った。


「深芳の娘、紫月じゃ。此度、碧霧と一緒に沈海平しずみだいらへ行くことが決まった。大事な姫じゃ、しかと守るよう頼む」

「……沈海平へ?」


 三番隊長があからさまに怪訝な顔をする。そして、真意を推し測るような目を深芳に向けた。

 深芳が小さく頷き返す。


「危険を伴う旅となることは、娘も分かっておる。与平、手間が増えるがよろしく頼む」


(与平……)


 母親が呼んだその名を紫月は頭の中で繰り返した。

 そして次の瞬間、彼女はぱっと目を見開いた。


「あーっ! 与平って──、与平さん?!」


 刹那、三番隊長の頬がぴくりとひきつった。

 間違いない。まさか、こんなところで母親の想い手である「与平さん」に会えるだなんて。


 思わぬ者の登場に驚きながら、一方で、想像よりずっと堅物で地味な感じだなと紫月は彼の容貌をまじまじと見つめた。

 すると、深芳がすごい形相で娘の耳をつまみ上げた。


「何をじろじろ見ておる。与平が困っておるではないか」

「いっ、痛い! 母さま、痛いってばっ」

「与平、不躾な娘ですまぬ。気に入らぬ時は斬って捨ててくれ」

「それ、死んじゃうじゃないの!」


 母親の手を振り払いながら紫月が言うと、与平が口にこぶしを当ててプッと笑った。意外な優しい笑みに紫月はどきりとする。


 これは、あれだ。


「禁断のギャップ萌え……」


 ちらりと深芳に目をやると、里一の美女の矜持はどこへやら、彼の笑顔にぽやんとした顔になっている。

 そして、そんな様子を千紫は面白そうに眺めていて、彼女は二人の関係を知っているのだと紫月には分かった。


 すぐに与平がこほんと咳払いをして真面目な顔に戻る。そして彼は、「ところで……」と続けた。

 

「紫月様が沈海平へ行くというのは分かりました。では、今宵の……、その、宵臥は?」

「あ、」


 すっかりそのことを忘れていたとばかりに、千紫と深芳が顔を見合せ、次に紫月を見た。紫月がバツの悪い顔で「さあ?」と首をかしげた。


「や、さすがに二人で夜を過ごすのは心の準備ができてなくて、これを理由に逃げてきた」


「まさかの放置……?」


 千紫と深芳がさあっと青ざめる。


 しかし次の瞬間、二人はお腹をかかえて笑い出した。

 こうして、「宵臥の逃亡」という奥院始まって以来の珍事とともに伯太はくたいの儀の一日は終わりを告げた。

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