5)風にのる南路

1.いろいろ微妙な朝の出発

 次の日の朝、身支度を終えた碧霧は、他の六洞りくどう衆とともに、まだ薄暗い南庭に集まっていた。誰もが動きやすさを重視した黒の武装束を身にまとっている。

 袖も筒型で袴もぴったりした細身のそれは、とても動きやすい。普段から堅苦しい格好ばかりしている碧霧は、毎日これでいいんじゃないかと思ってしまった。


 清々しい朝の空気の中、百人ほどの隊士たちがそれぞれ自身の持ち物の最終確認をしている。ピリピリと張り詰めた雰囲気である──はずなのに、微妙な空気が混じり合っていた。


 それもこれも昨日の夜、紫月が帰ってしまったせいだ。


 昨夜の間に、「宵臥よいぶし逃亡」の話は御座所おわすところ全ての者が知るところとなった。

 碧霧に向けられる憐れむような視線がめちゃくちゃ痛い。


「なんでも逃げられたんだってよ」

「平手打ちを食らったとも聞いたぞ」

「いやいや、それないやろ。泣くわ」


 時おり聞こえる囁き声に彼は何度も顔をひきつらせた。

 宵臥に召し上げた姫に逃げられるなんて、すでに男としての自尊心プライドはズタズタだ。

 それでもなんとか持ちこたえているのは、紫月が「一緒に沈海平へ行く」と言ってくれたからである。


「碧霧、皆の助言を聞き、無茶はしないよう」


 千紫が夜も開けきらない早朝だというのに見送りに来てくれていた。

 いつもは高く結い上げている髪も今朝は時間がなかったせいか背中でゆったり束ね、着ている物も軽装だ。

 当然ながら、父親の旺知あきともの姿はない。勝手にすればいいといったところだろう。


 碧霧の傍らには、同じく武装束をまとった左右の守役。

 左近は下野しもつけ与平と出発前の打ち合わせをし、右近は人待ち顔で空を見上げていた。

 今朝一番に二人には昨夜の事の顛末と、紫月が宵臥の姫であったことを伝えた。

 左近には「確かに今までのおんなとは違いますな」と嫌味を言われ、右近には大笑いされた。


、本当に来ますかね?」

「来るって言ったんだから来ると思う」


 とは言え、夜明けとともに出発する予定だ。もし彼女が遅れたとしても待つことは出来なかった。

 しかし、やきもきしながら待つことしばし、青墨色の西の空から紫月を乗せた白い狛犬が現れ、勢いよく南庭へ降り立った。


「葵、お待たせ!」


 紫月が狛犬の背中からぽんっと飛び降りた。

 柳色に白地の唐草模様の小袖は、下が短めのスカート。中に深緑色の小花柄のレギパンを履き、足元はブーツサンダルだ。

 狛犬の両脇には大きな荷袋がくくりつけられている。


「紫月、今日も個性的な格好だな」

「でしょう? この前、人の国から取り寄せたのよ」


 自慢げに答える紫月が可愛らしくて、碧霧は彼女を抱き上げた。

 紫月が顔を赤らめ、戸惑いつつもはにかんだ。お互いに隠す事もなくなり、二人の距離がぐっと近くなったと実感する。


 これで昨夜からの屈辱も少しは和らぐというものだ。


「吽助の大荷物は?」

「ああ、これね……」

 しかし、


「あーっ、与平さん!!」


 紫月は三番隊長の姿を見つけると、足をバタつかせて碧霧から降り、彼を押し退け満面の笑みで与平に駆け寄った。そしてそのまま与平に飛びついた。


「え?」

 自分から飛び込んでいって──て、「与平さん」って?!


「ああ。昨夜、紹介したらえらく紫月が懐いての」


 驚く息子に向かって千紫がなんでもない風に答えた。

 碧霧は思わず与平を指差した。


「懐くって、俺でもまだあそこまで懐かれてないし!」


 体を震わせる碧霧の横で、左近が「そりゃ隊長は渋いですから」と感心しきりに言い、右近にいたっては必死で笑いをこらえている。


 紫月が碧霧にさえ見せたことのない甘えた顔で与平を見上げた。


「母さまが薬をいっぱい持っていけと」

「それは助かります。それより、その犬で道中を共になさるので?」


 紫月を抱き止めながら、普段と変わらない口調で与平が尋ねる。

 そして、彼は「ふむ」と狛犬を眺めた。


「長旅になります。手綱代わりに首輪をつけた方がいい」

吽助うんすけはそんなもの付けたことないもの。きっと嫌がるわ」

「もちませんよ。それに、このままでは犬の方も疲れてしまいます」


 言って与平は自分の馬にくくりつけた荷物の中から太いタスキを取り出した。


「これを首に巻きましょう」


「与平、貸せ。俺がつける。吽助は神経質なんだ」


 ここぞとばかりに碧霧は与平と紫月の間に割って入り、タスキを与平から奪い取った。

 右近の「必死で痛いな」という囁きは聞こえないことにする。

 痛かろうがなんだろうが、宵臥に逃げられた時点で、こちらはもう恥も外聞もなくなっているのだ。


 与平を不機嫌な目で睨んで威嚇しつつ吽助にタスキを巻いていると、紫月が隣にちょこんとしゃがみ彼の顔を覗き込んだ。


「私、葵のために来たのよ?」

「だったら、他の男に飛びつくなよ」


 ムスッと碧霧は言い返した。

 紫月が苦笑しながら「与平さんは特別なの」と答えた。

 そして彼女は、ぱっと立ち上がると、にわかにざわつく隊士たちに向かってぺこりと頭を下げた。


「まだ葵とは何もないけど、一応彼の宵臥よいぶしです。あと、与平さんとは仲良しになりました。よろしくね!」


 何もないは余計だ。あと、三番隊長と仲良しになったっていうのも。


 しかし、六洞りくどう衆の鬼たちの心はがっちり掴んだ挨拶だったらしく、いかつい鬼たちがどっと笑った。


 本当に彼女には敵わない。


「さあ、行こう。出発だ!」


 碧霧は出発の号令を出した。

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