6.母親たちは気にしない

 今日の千紫は祝いの日ということもあり、普段よりずっと華やかだ。

 蒔絵が施されたかんざしを頭に挿した彼女は、花車の染め柄が大胆な朱色の打ち掛けをぱさりと翻し部屋に入ってきた。


 そして、いの一番に紫月に抱きついた。


「紫月! 最後の最後で来てくれぬかと心配しておった」

「はは、まさか」


 来ないなんて選択肢はなかったじゃないかと内心思いつつ、紫月が曖昧な笑いを返すと千紫は「心配するな」と頭を撫でた。


「実はの、紫月。私も宵臥よいぶしじゃ」

「そうなの?」

「うむ。だから、息子の碧霧には無理強いは決してするなと言っておる。おまえも、気に入らなければ断ってもらえればいい」

「……本当に?」


 不安げな顔で紫月が聞き返すと、千紫は「もちろん」と頷いた。


「おまえは今日、伯子の品定めをするために来たのじゃ。気に入らなんだら、横っ面を殴ってもらってもいいぞ」


 茶化しぎみに答える千紫に、紫月は少しほっとする。母親の深芳や叔母の藤花と同じく、彼女は紫月にとって憧れの女性である。

 その女性が育てた息子なのだから、きっと素敵な殿方なのだろう。


 でも──。


 紫月の頭の中に「葵」の顔が浮かび、鬱々うつうつとした気持ちになる。いつか彼も自分と同じように知らない姫と一夜を共にする日が来るのだろうか。

 そう考えるだけで、切なさで胸がいっぱいになった。


「奥の方さま、寝間が整いましてございます」


 折しも侍女の雪乃がやって来て千紫に告げる。

 紫月の胸がどくんと波打った。


「さあ、私が案内しよう」


 千紫が嬉しそうに紫月の手を引いた。

 奥の方である千紫が自ら伯子の宵臥よいぶしを案内するなんて異例中の異例だ。


(大丈夫、最後の最後で断ればいい)


 そう自分自身に言い聞かせ、紫月が千紫と共に立ち上がろうとしたその時、別の侍女が慌てた様子でやって来た。


「失礼いたします。ただ今、碧霧さまがこちらにいらっしゃいます」

「碧霧が?」

「はい、紫月さまと深芳さまに直々にご挨拶をしたいと仰せです」

「なんと。分かった。早く通せ」


 言って千紫は上気した顔で紫月に向かってにこりと笑う。

 その顔は、上手うまくいくと信じて疑っていない顔だ。ある意味、脅しに近い圧だなと紫月は思った。


 静かな足音と共に二つ鬼の青年が現れる。紫月は両手をついて頭を下げようとし、しかし、その青年の姿を見て固まった。


「碧霧です」


 碧霧と名乗る青年が穏やかな顔で頭を下げた。

 女かと思うような綺麗な顔立ちのくせに、精悍な目元や自信たっぷりな口元が決してそうだと感じさせない。濃い青紫の直垂ひたたれ姿は凛々しく優雅で、溢れる育ちの良さは隠しようもない。


 どこからどう見ても、彼は紫月の知っている「葵」だった。


「お初にお目にかかります。叔母上とお呼びしても?」


 深芳が満面の笑みを浮かべて答えた。


「もちろんでございますとも。それに碧霧さま、初めてではございません。小さい頃に何度かお会いしております。覚えてはいないでしょうけれど」

「ははっ、さすがに覚えてないですね」


 紫月は呆然としながら目の前の貴公子を見上げた。驚きが勝り過ぎて、思考が追いつかない。

 ただ分かったのは、彼が「葵」であり、そして、伯子であるということ。


 紫月は思わず立ち上がると彼の前にずかずかと歩み寄った。そして、じっと彼の顔を見つめる。碧霧が少し強ばった顔をした。


 ふーん。そういう顔をするってことは、私が宵臥よいぶしで来るって分かってたんだ。


 刹那、


 紫月は怒りとともに碧霧の頬を思いっきり平手打ちした。

 パンッという乾いた音が廊下に響いた。


「ええっ?」

「いきなり?!」


 千紫と深芳が真っ青になる。千紫がおろおろになりながら紫月に声をかけた。


「落ち着け紫月、顔か? そうか、この顔が気に入らぬのだな? しかし、男は顔ではない。せめて、二言三言ふたことみこと話してはくれぬか? 美男は三日で飽きると言うが、しこは一生飽きぬと言うぞ」


 隣で深芳も大きく頷く。


「そうじゃ、いくらなんでも早すぎる。というか、この顔で気に入らぬとは、どれだけ面食いなのじゃ」


 しかし、二人の言うことなど全く無視して紫月は碧霧を睨んだ。


「嘘つき!!」


 ぎゅっと握りしめた両手がふるふると震える。


「何が雑用係よっ。思いっきり伯子さまじゃないの!」

「紫月だって──」


 負けじと碧霧が紫月を見返した。


「東の端に住んでるって、落山は西だろ?!」

「あそこは──、明山あからやまの一帯は、私の庭みたいなもんなのよっ。地元よ、地元!」

「俺だって、伯子とは名ばかりの雑用係なんだよっ。だいたい──」


 さらに何かを言い募ろうとして、碧霧がぐっと言葉を飲み込む。紫月が不満げな顔を向けた。


「何よ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」

「……こんなことで言い争いはしたくない。明日には俺はいなくなるんだから」

「え?」


 突然の碧霧の言葉に紫月が怯む。その隙を碧霧は見逃さなかった。

 彼は屈んで紫月の腰に手を回すと、そのまま彼女を持ち上げて肩に担いだ。


「きゃあっ」


 思わず紫月が叫び声を上げた。しかし、碧霧はそれを全く無視して、深芳と千紫に向き直った。


「母上、伯母上、紫月を一晩こちらで預かります。いいですか?」

「いいもなにも、紫月は今宵の宵臥よいぶしじゃ」

「ああ、そうでした。じゃあ遠慮なく寝間に行きます」


 言って彼はくるりと踵を返すと、すたすたと歩き出した。彼の肩の上では紫月が大暴れだ。


「放して! このエロ伯子!!」

「うるさいな。ちょっと黙ってて」

「いや! 宵臥なんて絶対にいや!」

「だったら最初からこんなところにのこのこ来るな!」


 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら二人が廊下の先へと消えていく。明らかに喧嘩をしているが、じゃれあっているように見えなくもない。


「なんだか分からんが、」

「うまくいったの」


 小さくなっていく二人の後ろ姿を見つめながら母親たちは呟く。

 まあ、もろもろ疑問は残ってはいるが、深芳と千紫は全て気にしないことにした。

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