5.不機嫌な姫
立派な
ここを通ることは洞家であってもできない。
つまり大礼門を通るということは、伯家
今日の
今はちょうど宴の最中だろうと、深芳が耳打ちした。遠くから聞こえる賑やかな声と音楽を聞きながら、紫月は(伯子は今まで正式な伯子じゃなかったんだ)とぼんやり思った。
十日ほど前、千紫から
だから、「もう少し先の話だから時間をかけて考えていい」と言われた時も、紫月は断る理由を考え始めていた。だって、自分の心の中にはもう「葵」という二つ鬼の青年がいる。
しかし、彼のお付きの鬼に「彼に縁談の話があるから身を引け」と言われ、いろいろどうでもよくなった。というより、この手の話は自分一人だけの問題ではなく、断ることなんて到底無理なんだと思い至った。
そしてそう思い至った矢先に、予定が急に早まって、二日後の今日に宵臥に上がることとなった。
考えていいと言われたはずなのに、深芳も千紫も自分が了解することを前提で話を進めている。断れるなんて軽く考えていた自分が馬鹿だった。
伯家専用の車寄せに到着し、紫月は深芳とともに車から降りた。
ふと前方に目をやると、入り口に
今日の紫月は、肩の部分だけ鮮やかな
この小袖は、千紫がわざわざ紫月のために特注してこしらえてくれた物だ。紫月にとってもお気に入りの一着で、今日は会ったこともない伯子のためではなく千紫のためにこれを着てきた。本当なら打掛を羽織らなければいけないが、そんな慣れないものは嫌で着なかった。
深芳は白地に菖蒲柄の打掛を羽織り、ゆるくうねった栗茶色の髪を後ろへ流している。
ただ立っているだけなのに、この完成度の高さはなんだと紫月は娘ながらに思った。
「落山の方様、お待ちしておりました」
「ありがとう」
深芳は今、落山に住んでいるので「落山の方」という呼び名である。
彼女がたおやかな笑顔を男に向けると、それだけで男の鼻の下は二倍ぐらいに伸びた。
さすが、里一の美女。
どんなに残念な姿を娘にさらしていても、そんなことは微塵も感じさせない。
すると、ふいに二つ鬼の男がその視線を今度は紫月に移した。
男と目が合い、慌てて視線を外したものの、好奇の色がにじむ男の目に紫月は若干の不快感を覚える。「今から伯子に抱かれる娘はおまえか」と言われたような気持ちになった。
刹那、
「何をじろじろと娘を見ておる」
不機嫌な深芳の声が響いた。
はっと男が我に戻り、慌てて頭を床に擦り付けた。
「も、申し訳ございません。あまりの美しさに──」
「もうよい。奥院には我らだけで行く。案内は不要じゃ」
「それは困りますっ。奥院の入口まで案内せよと仰せつかっております」
「知らぬ。かつて住んでいた場所じゃ。好きに通らせてもらう」
ぱさりと打掛をひるがえし、深芳がさっさと歩き始めた。紫月は慌てて母親の後を追った。
「いいの? 死にそうなほど青くなっていたけど」
「構わぬ。おまえを舐め回すように見ておった。頭を踏みつけても良かったほどじゃ」
深芳がすました顔で乱暴な言葉を吐き捨てる。
すごいな、里一の美女。
ここを追い出された女のくせに、誰よりも偉そうだ。
「行くぞ。皆がおまえに注目するであろうが、素知らぬ顔で押し通せ」
深芳が極上の笑みを浮かべ、まっすぐ前を見据える。そんな母親の後ろ姿は頼もしくさえある。
にわかにざわめき立つ長い廊下は、いろいろな感情が渦巻いているのが分かった。紫月は、ぎゅっと感覚を閉じて、すました顔で母親に続いた。
奥院まで来ると、千紫付き侍女である雪乃が待っていた。
彼女は何度か落山に千紫の遣いで来たこともあり、紫月とも顔見知りだ。
「よくぞお出でくださいました。さあ、客の間へ。今は祝いの宴の最中ですが、お二人がお越しになられたら知らせるよう言われております。少しお待ちくださいませ」
そう言って雪乃は客間へ二人を案内すると、そそくさと部屋を出ていった。
一方、お茶を一口飲みながら紫月は大きく息をつく。
「疲れたか? 紫月」
「ちょっとね……」
ここに辿り着くまでに、品定めのような目で見られたり(商品ではないっての)、聞こえよがしに「なし者の娘ですって」と囁かれたり(こちらに聞こえる時点で囁きとは言わない)、あからさまに睨まれたり(何かしたか?)、さんざんな目にあった。
油断をすると、どろどろした感情がこちらに容赦なく刺さってきて、紫月はいつも以上に固く感覚を閉じていた。
もしこのまま奥院に住むことになったら、あれと付き合わないといけなくなる。そう思うと、
甘い物でも食べていないとやってられない。
紫月は生菓子をぱくりと一つ頬張った。
が、ただ甘ったるいだけの菓子は、この奥院の生活を彷彿とさせるだけだった。
「いつもの芋饅頭の方がおいしい」
「すでに機嫌が悪いの」
深芳がしょうがないなと苦笑する。
その時、
「よう来た。紫月!」
気忙しい足音とともに千紫が満面の笑みで現れた。
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