2.二人で遠乗り

 遠峰は、北の領の北部にある八ヶ岳山脈の尾根の一つで、緩やかな勾配に野花が咲き乱れる花の名所である。


 紫月を空馬に乗せて、ぐんぐんと空を駆る。

 吽助が少し不満そうな顔で後に続く。帰りは紫月を譲らないと機嫌を損ねそうだなと碧霧は思った。

 しばらく走ると、眼下に青々とした草が生える野原が見え始めた。


「あそこでいい?」

「碧霧の好きなところで」


 適当な所に馬を降下させ、野原に降り立つ。爽やかな風が吹き抜けるそこは、名もない草花が一面に咲いていた。


「うーん、気持ちいい!」


 紫月が両手を大きく広げた。風に吹かれて黒髪がきらきらと波打つ姿が美しい。彼女は、山の空気を大きく吸い込むとその場にぺたりと座った。


「葵、こっちに来て」


 ちょうど馬を空に放したところで碧霧は紫月に声をかけられた。言われるままに歩み寄り隣に座ると、紫月が自分の両ひざをパンパンと叩いた。


「はい、ここに頭を乗せて仰向けに寝転がって」

「えっ、いきなりひざ枕なの?!」


 刹那、碧霧は頭を思いっきり叩かれた。


「違う、傷を治してあげるのっ。誰がひざ枕よっ!」


 汚い物でも見るような目で紫月が睨む。碧霧は、どちらにしてもひざ枕じゃないかと思いつつ、大人しく彼女の言う通りにした。


「もう見えるようになったけど」

「ダメよ。目の回りの皮膚がひきつれて赤く腫れ上がっているじゃない。ほら、目をつむって」

「これ、どうにもならないって。薬を塗ってもこれだから」

「ああもうっ、つべこべとうるさいわね。いいから目をつむれっての!」


 碧霧は再び頭を叩かれた。こんなに軽々しく伯子の頭を叩くのは紫月くらいだと碧霧は思う。彼はしぶしぶ目をつむった。

 せっかくの膝枕も仰向けでは、彼女の柔らかい肌を堪能できない。これ、あとから横向きにさせてもらえるかなと考えていると、今度は頬っぺたをつねられた。


「エロいこと考えないで」

「いでっ。相変わらず本当に勘が鋭いな」


 悪びれず碧霧は笑い返したが、紫月はそれをため息まじりに受け流す。そして、彼女は碧霧の両目にそっと手の平を乗せた。彼女の体温がじんわりと肌に伝わり、目の周りがなんとも心地良くなった。


「言ったでしょ。私、なんとなく分かるって」

「だから勘が鋭いってことだろ」

「……ちょっと違う」


 紫月がためらいがちに答えた。


「例えば、今日は山全体の機嫌がいい。あと風も。でも、空はちょっと不機嫌だから明日は雨になるかもね」

「そんなことまで分かるの?」


 驚きながら碧霧は言った。手の平で包まれた目の周りがほこほこと温かい。


(すごいな。自然の気をじかに感じることができるのか)


 これも月詞つきことが歌える彼女ならではの能力なのだろうか。

 碧霧は穏やかな気持ちになりながら、紫月との間にあったこれまでのことを頭の中であれこれと思い返した。しかしややして、ふと一つの仮定に辿り着いた。


「まさか、俺の気持ちも分かるとか?」


 すると、


「……ごめんなさい」


 蚊の鳴くような紫月の声が返ってきた。


 どうりで。


 嘘が通じないわけだと、碧霧の中で何かがストンと落ちた。


 しかし紫月が、「でもっ」と付け加える。


「具体的に考えていることが分かるわけじゃないし、いつもは感覚を閉じて感じないようにしているの。複雑な気が無秩序に入ってくると、こっちも疲れ果てちゃうから。ただ、葵は会ったばかりだし、私もちょっと警戒してて──」


 本当は少しだけ嘘だ。警戒していたのは最初のほんの少しの間だけ。

 彼が警戒しなくていい鬼であることは、すぐに分かった。それなのに、再会した時に彼の気を探ったのは、何も分からない彼のことをただただ近くに感じたかったからだ。


「心を覗くような真似、気分悪いよね。ごめんなさい」


 紫月は再び謝った。猿師は、式神で後をつけさせた彼のことを「悪趣味」と言ったが、それを言うなら自分の方がよほど悪趣味だ。


 両目を手の平で覆っているせいで彼がどんな表情をしているのか分からない。当然、今は感覚も閉じている。手をどかして彼の目を見ることも、感覚を解放して彼の気を感じることも、怖くてできなかった。


 すると、碧霧が紫月の両手を掴んだ。碧霧の手がゆっくりと、両目の上に置かれた紫月の手をどかす。まだ痛々しい彼の目があらわになった。

 彼がその目を優しく和ませた。


「だったら紫月、俺が今怒ってないの分かるだろ?」


 紫月はふるふると頭を左右に振った。


「今は感覚を閉じてる。もう二度と葵の感情を探るような真似はしない。それがどんなに自分にとって怖いことか、ちゃんと分かってるはずだった」

「そんなこと」


 碧霧は笑った。そして今にも泣き出しそうな彼女の頬をなでる。彼の穏やかな瞳が紫月を捉えた。


「紫月になら何を覗かれたって、俺いいよ。紫月がそうした方が安心するのなら」

「……」

「だから俺にだけ、紫月の感覚全部を解放して?」


 彼の深紫の瞳に吸い込まれそうになる。

 感覚全部を解放してって、そんなことして彼のことを感じたら──。


「──まっ、まだ治療の途中!」


 紫月は思わず碧霧の両目を手の平で覆った。

 胸がどきどきと早鐘のように鳴った。このまま見つめ続けられたら、どうにかなってしまいそうな気がした。


 紫月は気を取り直して、治療に専念することにする。ふいに碧霧が「あ、」と声を上げた。


「そう言えば、紫月」

「な、なに?」

「今は感覚を閉じてるって言ってたけど、さっき俺がエロいこと考えていたの分かったじゃん」

「それは、葵が鼻の下を思いっきり伸ばしてたからよっ。ていうか、やっぱり考えてたのね! ほんと悪びれないんだから!」


 この御曹司は、割りとエロい。

 真面目に謝るんじゃなかったと、紫月は激しく後悔した。

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