3.もう一度、彼女に会いたい

 「月夜つくよの変」と呼ばれる三百年前に起こった政変は、父旺知あきともが元伯家に対して起こした謀反である。


 その時、多くの一つ鬼が殺されたり排除されたりしたと聞いた。

 直孝もその一人だ。


「あなたは、今の御座所おわすところのやり方は間違っていると思いますか」

「さあ、分かりません。が、先のまつりごとが正しかったとも思いません」


 直孝が遠い目をしながら小さく笑う。


「彼らは自分たちが特別であるために月詞つきことました。土の汚染は、当時も問題となっていたのですが、しかし、先代鬼伯は月詞なしでなんとかせよの一点張りで。私が最後に伯家の月詞を聞いたのは、藤花さまが御前会で披露した風の御詞みことでございます」


 碧霧は黙って彼に頭を下げた。すまないと謝ることも、居丈高に言い返すことも違う気がした。


 同時に、紫月のことも気にかかった。

 このままでは危険だと、直感的にそう感じた。月詞つきことは、ただの心地の良い歌ではない。政治的な道具ともなり得る力だ。


 父親の息のかかった者に見つかったら殺されるかもしれない。その影響力の強さを知っている者に見つかったら利用されるかもしれない。


(あんなところで無邪気に歌っている場合じゃないだろ)


 彼女はどこまで分かっているのだろう。

 そう思うと、いてもたってもいられなくなった。


「直孝おう、所用があるのでこれで失礼いたします。また、会いに来てもよろしいですか?」

「粗茶しか出せませんが、もちろんです」

「ありがとう」


 碧霧は老鬼に一礼すると立ち上がった。




 直孝の庵を去り、しばらく歩いたところで左近がようやく碧霧に話しかけた。

「碧霧様、特に用事もなかったでしょうに、もう少し話を聞かなくてよろしかったのですか?」

「ああ、話す機会はまたある。それよりも、東の端屋敷はやしきに幽閉されている末姫に会いたい。確か、おまえの両親は政変前から懇意にしていて、今でも行き来があると聞いたことがある。重丸に頼んでくれないか?」


 左右の守役が渋い表情で顔を見合わせる。


「碧霧様、おそらく無理だと思います」


 左近が遠慮がちに答えた。


「あの方の幽閉は特別です。この三百年、藤花さまは端屋敷の外に出たことはありませんが、閉じ込められているわけではありません。あの方自身がお出にならないのです」

「知っている。それが、政変を終わらせる条件だったと母上から聞いた。だとしたら、外に出ないだけで会うのは自由だろ」

「ことはそう簡単ではないですよ」


 今度は右近が、兄の言葉を引き継いだ。


「藤花さまは、元伯家が結んだ古い盟約により伏見谷の二代目九尾へ嫁がれる身。政変後もその盟約は破棄されていません。伏見谷に二代目はいまだ現れていませんが、藤花さまは大切なものを先代九尾から預かっていると聞いています」

「それも聞いたことがある。九尾の妖刀に関するものだと」

「そうです。つまり彼女は伏見谷を牽制するための質のような存在でもあるわけです。里外へ生きて放逐したくない月夜つくよと、彼女に死んでもらっては困る伏見谷──、そんなわけで伏見谷の猿師が藤花様を守るための強力な結界を結び、三百年間ずっと屋敷を囲っています。あの屋敷に入れるのは、藤花様が許した限られた者のみです」

「猿師……、あの大妖狐九尾の唯一の弟子か」


 ため息まじりに碧霧は唇を噛み締める。

 伏見谷とは、三百年前に大妖狐九尾が拓いた人の国にある妖狐の里だ。

 そして猿師とは、その伏見谷に住む妖猿で、亡き大妖狐九尾の唯一の弟子である。月夜つくよの変では一人で里に乗り込んできたという話も重丸から聞いた。


 左近や右近の両親とは政変前からの仲らしいが、今の伯家と友好的な訳ではない。

 むしろ、伏見谷とは緊張状態が常に続いていると言っていい。右近の言う通り、盟約の要である末姫をずっと里で囲っているわけなのだから。


 碧霧としては、猿師は一度会ってみたい憧れのあやかしであるが、そう簡単に会ってくれるとは思えない相手だ。

 ましてやその彼が大切に守っている姫に会うなんて、今の月夜の里と伏見谷の関係を考えても門前払いを食らうのは確かに目に見えた。


(紫月は末姫と関係があるかもしれないのに……)


 月詞つきことは誰でも歌えるものではない。だとしたら、少なくとも藤花から教わっている可能性が高いと考えるのが自然だ。

 本人も「里東さとひがしに住んでいる」と言っていた。


 碧霧はいてもたってもいられなくなった。


「二人は先に帰っていてくれ。ちょっと寄りたいところがある」

「ちょっとって、どちらです?」


 左近が厳しい視線を碧霧に投げる。碧霧は面倒臭そうにそっぽを向いた。左近が諌め口調で彼に言った。


「碧霧様、あなた様を守るのが我ら左右の務めです。それに先日、奥の方様からを自重させろと申しつかっております」

「分かっている。けど、これじゃあ何一つ自由がない。別にやましいことはしていない。聞き分けのいい丸裸の伯子なんてクソ食らえだ」


 碧霧は口汚く吐き捨てた。

 いつになくイライラしている伯子の様子に左近と右近は顔を見合わせる。しばらくの沈黙。ややして、左近が大きなため息とともに碧霧に言った。


「分かりました。では、夕刻までにはお戻りください。行くぞ、右近」


 そう告げると、左近は妹をともない馬首を返して走り去っていった。


「よし、」


 碧霧は東の明山あからやまを見定めた。


 今日は彼女に会えるだろうか。気持ちが高鳴る。


 はやる気持ちを抑えつつ、碧霧は山へ向かって馬を走らせた。

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