4.歌わない約束

 紫月は今日も明山あからやまの川辺に来ていた。なんとなく二つ鬼の青年を待ち続けて五日がたった。


 今日は肩のあたりだけとき色に染められた乳白色の小袖を着ている。彼女は裾をまくし上げて、足先をぽちゃんと川に浸けた。


(別に会えなくてもいいんだけど、)


 でも、夕暮れには「今日も会えなかったな」とがっかりする自分がいる。きっと同年代の友達がいないせいだと紫月は自分に言い聞かせた。


「ねえ、吽助うんすけ。今日は来ると思う? 来ないかな?」


 でも、明日は来るかもしれない。だって、「ずっと呼べる名前を教えてほしい」と彼は言ったから。もう二度と会わない相手には、そんなことは言わないはずだ。


 暇を持て余して川に浸した足先をポンと蹴りあげると、水面がパシャリと跳ねた。隣の吽助が迷惑そうに顔を振る。


 もう一度、蹴りあげる、パシャリと跳ねる。そしてもう一度。そのリズムが面白くて、楽しい気持ちが自然と歌になる。これはそう、水面が踊る歌。


 と、その時。


「……また、歌ってる」


 呆れ顔の二つ鬼の青年が傍らに立っていた。


「葵!」


 もう半分諦めていたのと歌に夢中になっていたのとで、紫月は驚いてそのまま川に滑り落ちそうになった。


「ま、また来たの?」


 嬉しさで緩む顔を叱咤し、紫月は素っ気なく彼を迎えた。

 ずっと待っていたことはみじんも顔に出すつもりはない。だって、自分ばかり考えていたなんて悔しいから。


 今日は前回よりさらに立派な小袖と袴姿だ。こちらが本来の姿であるなら、やっぱり彼はどこかの御曹司だ。


「今日、空馬は?」

「放してきた。呼べばすぐに来るし」


 言って碧霧は紫月の隣に断りもなく座った。そして、自分も同じく草履を脱いで足を川に浸ける。川の水は思った以上に冷たくて、汗ばんだ体が一気に冷めた。


 いきなり隣に座るなんてちょっと図々しいかなと碧霧は思った。しかしそれぐらいしないと、ずっと立たされたままになりそうだ。

 それから彼は、できるだけ平静を装って彼女に尋ねた。


「いつもそんな風に歌ってるの?」


 すると、紫月がもぞりと動いて碧霧からほんの少しだけ離れた。さりげなく距離を取られて、碧霧は内心がっかりする。


 紫月が心外だとばかりに口を尖らせた。


「いつもは歌わないわ。たまたまよ」

「本当に? 今も歌っていたじゃないか」

「本当よ。誰かの前で歌ったのは、あなたが初めて」 


 紫月は答えた。まあ、藤花や猿師を除けばの話だが、それは内緒だ。


 しかし目の前の青年は疑わしげに目を細めた。


「でも、俺が初めてってことはないだろ。とても変わった歌い方だし。それ、誰かに教えてもらっているの?」


 碧霧はあくまでもさりげなく彼女に尋ねる。彼女のことをいろいろ知りたいが、あれこれと詮索されていると思われたくもない。


 一方、核心を突いてくる彼の質問に紫月はほんのわずか緊張する。しかし、彼女もまた素知らぬ顔で碧霧に答えた。


「別に誰にも教わってなんかいない。一人で勝手に歌っているの」


 藤花と関わりがある身だと知られる訳にはいかない。それに、今は彼女に月詞つきことを教わっているが、幼い頃に月詞を一人で勝手に歌い出したのは事実だ。


「一人で勝手に?」


 それは嘘だと言いたいが、それを言ってしまうと、「なぜそう思うんだ」という話になる。

 碧霧が疑わし気な顔をする。紫月は思わず彼を睨んだ。


「何? 信じられない?」


 ここは強引に押しきるしかないと紫月はあえて語気を強めた。


 碧霧が押し負ける形で肩をすくめた。そして彼は大きく息をつくと、今度はおねだりをする子供のように目を細めた。


「じゃあさ、俺以外の奴の前では歌わないで」

「葵以外の前で?」

「そう」


 もともと誰かの前で歌うことは禁じられている。紫月はにっこり笑い返した。


「分かった。歌わない」

「約束だよ」


 碧霧は満足げに笑う。紫月の存在を隠すために提案したことだが、結果として彼女の歌を自分だけのものにしたような気持ちになった。

 そして、あらためて彼女の身なりを確認する。


 先日は「着物ドレス」なんて変わったものを着ていたが、今日は普通の小袖だ。

 肩のあたりだけとき色に染め上げられたそれは、特注品であることが一目で分かった。特注品なんて、それなりの財力がないと手に入らない代物であることぐらいは、自分の衣服の値段が分からない碧霧でも、さすがに分かる。


(それがなんでこんな山奥で遊んでいるのだろう? 侍女や側女そばめ候補として奥院に上がってもいいくらいなのに)


 裾を膝近くまでまくし上げ、白い足をむき出しにしている様は、とても良家の姫君とは思えない。


 だいたい、男の前でその艶っぽい足は反則だ。


(大胆というか、無防備というか)


 油断をすると視線がそこに行ってしまう。この前も膝丈しかないスカートをはいていた訳で、紫月の素足を見るのは初めてではない。でも、裾をめくり上げられ見える素足はなぜか色っぽい。


「そうだ紫月、遠乗りに行かない?」


 そわそわした気持ちを誤魔化すために、碧霧は彼女を誘った。

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