7 嘘つきだけど、

「母さま、落ち着いて」


 脇息に突っ伏して悔しがる母親をなだめながら、紫月は大きくため息をつく。


 深芳はかなりの恋愛下手だ。

 黙っていても男が近寄ってくる美貌の持ち主のくせに、大の男嫌い。おまけに座右の銘が「男は頭の上から踏みにじってなんぼ」ときたもんだ。


 ちなみに、母親の恋愛について紫月が知っているのは、彼女の口から出てくる「与平」という平凡な男の名前だけである。


(与平さん、今日も大変だったろうなあ。疲れて帰ってきた挙げ句に母さまが待ち構えていたんじゃ)


 どこの誰かも知らないが、毎度のように母親の口から出てくると、不思議と親近感が湧いてくるというものだ。


「で、いつものように追い返されたんだ?」

「ちゃんと手は握ってくれた」


 ただでは帰ってきてないぞとばかりに深芳が言い返してきた。大人の男女にしては、なんとも可愛らしいやりとりだ。

 おそらく、こちらの事情は分かっていて、あちらも一線を引いている様子が伺える。


「ねえ、母さま。今度、与平さんに会わせてよ。落山の屋敷に招いたら?」

「ここに? それはさすがに──」


 母親が苦笑する。そして、女主人らしい顔つきになった。


「ここに与平を招き入れることは、何かあった時に彼の立場を悪くする。私が押しかけて追い返されているくらいがちょうどよい」

「そっか」


 なんだ、分かってんじゃん。

 結局は彼女のノロケを聞かされただけだなと、紫月は笑った。


 一方、ひととおり気持ちを吐き出した深芳が、いつもの母親の顔に戻った。


「そんなことより、今日は少し遅かったの」

「うん、藤花叔母さまと話していたら遅くなっちゃった」


 紫月は深芳にも嘘をついた。自分の言動の矛盾を二人が確かめ合うことはないから大丈夫だ。


 なぜなら、姉妹二人の往来は禁止されている。


 月夜の変のあと、元鬼伯は殺され、その息子も長い幽閉の末に亡くなったと聞いた。今、元伯家で生き残っているのは深芳と藤花の二人だけだ。


「藤花は元気だったかえ?」

「うん」


 母親と違い、叔母の藤花は東の端屋敷はやしきから出ることも禁じられている。これは、二人の立場の違いからくる処遇の違いであるのだが、会えない分、母親は心配なのだろう。


「また明日も遊びに行くよ」

「飽きもせず端屋敷はやしきに入り浸るのう。どこぞで良い男に出会ったりはせんのか。おまえの年齢であれば、もう嫁に行き、夫の補佐をしていてもおかしくないというのに。いつまで狛犬と野山を駆け回るつもりじゃ」

「知らないよ。だって、誰も私なんてお呼びじゃないでしょ」


 紫月は一笑した。母親ではないが、紫月も男性が苦手だ。


 彼女は、昔から相手の気持ちがなんとなく分かった。心が読める訳ではないが、嬉しそうとか緊張しているとか、とにかくそういう気を感じるのだ。これは鬼に対してだけではなく、動物や森の木々に対してもだ。


 ただ、自然と比べて知性のある者たちの気は複雑で難しい。

 特に色恋ごとが絡むと、本能的な部分まで見え隠れして、紫月は男性のことが総じて好きではなかった。そういう目で見られているのかなと思うと背筋がぞわぞわとした。


 大きくなり、自らの感覚を閉じて相手の気を遮断する方法を覚えた。

 教えてくれたのは叔母の藤花だ。こういうことについては、深芳より藤花の方が得意で、彼女は紫月の「月詞つきこと」の師匠でもある。


 月詞つきこととは、月夜つくよの里に伝わる天地あまつちと対話する歌のようなものだ。今では、この月詞を歌えるのは藤花しかいないと聞いた。


 そしてその歌を紫月も歌える。


(聞かれちゃったな)


 再び二つ鬼の青年のことを思い出す。

 月詞を人前で歌うことは母親から固く禁じられている。その昔、月詞を歌えるというだけで今の鬼伯に多くの一つ鬼が殺されたという。


 自分と年もそんなに変わらない感じがしたし、きっと鼻歌か何かと思っただろう。誰かにベラベラと話すような鬼にも見えなかった。


(嘘はつくけど)


 見ず知らずの鬼だから、いつもは閉じている感覚を解放して思わず探ってしまった。そしたら、案外ほこほことした感情が返ってきて、その暖かく大きな気に包まれて驚いた。

 自信に満ちた、それでいて穏やかな瞳も信用できた。


(でも、嘘つきだけどっ)


 そこまで思って、紫月は自分の気持ちに気がつく。

 あんなに優しそうなのに、彼に嘘をつかれたことが気にいらなかったのだと。そして、思った以上に彼のことが心に残っているのだと。


 ふと、明日も山に出かけてみようと彼女は思った。

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