6 元伯家の美女

 月夜つくよの里の西、落山おちやまの森に囲まれた閑静な屋敷の玄関で、紫月は今日二度目となる「ただいま」を言った。


 奥から二つ鬼の女性が出てきて、紫月を笑顔で出迎えた。この屋敷で家事全般を取り仕切ってくれている波瑠だ。


「おかえりなさいませ。夕飯はどうなさいます?」

「うん、食べる。お腹がペコペコだし」


 草履ぞうりを脱いで家に上がると、味噌汁のいい匂いがした。波瑠が紫月の後を追い、歩きながら話しかける。


「では、深芳さまにもお声かけを。今日は例の所へお出かけになっていたのですが、戻られてから塞ぎ込んでおいでです。なんでも冷たくあしらわれたとかなんとか……」

「またあ?」

「はい、また」


 軽いため息とともに、紫月はそのまま西側の庭に面した部屋に向かった。母親の深芳の部屋だ。


「母さま、帰ったよ」


 紫月は深芳の部屋に着くと、薄暗い部屋の中を覗いた。


 あちこちに薬草が干され、隅には薬研やげん(薬草をすり潰す道具)や乳鉢などが置かれている。そして、棚一面に理解不能な多数の薬。


 およそ女性の部屋とは思えないその中央で、一つ鬼の女性が脇息に寄りかかり深いため息をついていた。


 緩くうねった栗色の髪が透き通るような雪肌の顔を縁取り、憂いを帯びた切れ長の目は、娘の紫月でさえどきりとする。

 かつて里一の美姫と謳われた、紫月の母親である。


 紫月の家はとにかく複雑だ。

 母親は三百年前の政変で御座所おわすところを追われた元伯家の姫、そして亡き父親は現鬼伯の実の兄だ。これだけでもややこしいのに、父親は鬼伯の実兄という立場でありながら、決して公の場に出ることはなかった。


 なぜなら、彼は「なし者」と呼ばれる頭に角がない鬼だったからだ。


 なし者は、どの家でもとして扱われる。

 家の納屋に隠されたり、山中に捨てられるなどはよくある話だ。

 鬼伯の兄と言えども例外ではなく、ここ落山の別邸に隠されていた。当然ながら正妻をめとることもない。だから紫月の母親も、立場としては側女そばめだ。


 御座所おわすところを追われた元伯家の姫となし者──。

 そんな複雑な両親の元に生まれたせいもあり、紫月は公の場に出ることもなく、名前も伏せられ、世間からも忘れ去られて育った。

 落山の屋敷では「姫」と呼ばれてはいるものの、子供の頃から野山を自由に駆け回り、いわゆる「姫」らしい要素は皆無だ。



「紫月、端屋敷はやしきは楽しかったかえ?」


 深芳が落ち込んだ顔にわずかばかりの笑顔を見せ、紫月を迎えた。

 長命の鬼であるので、よわい三百を過ぎた母親と言ってもまだまだ若い。

 見た目は人で言うところの三十代前後といったところだろうか。紫月が二十歳前後の見た目としたら、少し年の離れた姉妹のような感じである。


「そっちは、また冷たくあしらわれたんだって?」


 紫月が声をかけると、深芳は悔しそうに唇を噛んだ。


「あの男は、いつもいつも女心を踏みにじるのじゃ!」


 母親の言う「あの男」とは、今の彼女の想い手である。紫月の知る限り、かれこれ数十年来(もしかしたらそれ以上)の片想いだ。

 父親が亡くなったのが一年前なので、いろいろと突っ込みたくなる気もするが、もともと夫婦仲は良くなく、というより、互いに全く無関心な状態で、そこは察するに余りある大人の事情があったのだろうと紫月は思っていた。


 幼い頃は冷めきっている両親の姿を見るのが嫌で藤花の家に入り浸っていた。しかし、自分が大人になり、そんな気持ちも同情的なものに変わった。

 好きでもない男の側女そばめとなることは、どれほど辛いことだったか。それでも深芳は、自分を生んで母親としての愛情をめいいっぱい注いでくれたのだ。


 だから今となっては母親には自由に恋をして欲しいと思う。

 何より、紫月は恋する母親の姿が好きだった。つんと綺麗にすました顔より、ずっと表情が豊かで可愛いからだ。


「で、何があったの?」


 娘として、耳を傾ける態度は一応見せる。深芳がため息混じりに口を開いた。


「疲れて帰って来たところを驚かそうと思い──。いつもは玄関先で待たせてもらうのだが、夕食を作ったらきっと喜んでくれるであろうと……」

「まさか、無断で家に上がって、奥方面おくがたづらして待ち構えていたとか?」


 深芳がびくりと体を震わせた。

 もう全部を聞くまでもない。その状況が容易に想像できる。

 思わず絶句する娘の前で母親は情けなく眉根を寄せた。


「喜んでくれると思ったのに……」

「いや、ドン引くでしょ。本当に容姿と薬草の知識以外、取り柄がないのかと思えるほど」

「──同じことを与平にも言われた!!」


 深芳がわっと脇息に突っ伏した。

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