5 伯子は思い通りにならない
彼はほんの一瞬だけうるさそうな顔をしたが、すぐに母親に笑い返した。
「ああ、もしかして
「ならば、手まで出す必要はなかろう?」
凄味のある声でぴしゃりと言い、千紫は息子を睨む。
似たような会話は、これが初めてではない。
伯子は歌の上手な姫がお好みだというのは自他ともに認める話である。
「大事な姫君を傷物にされたと、七洞家当主がえらい剣幕で訴えに来たぞ」
「そんなこと、」
碧霧は鼻で笑った。
「もともと傷物だったけれど? あれは親の目を盗んで相当遊んでいるな。七洞家当主に教えてやった方がいい。声もたいしたことなかったし、あれならこの前寝た家元の娘の方がいい声だった」
「碧霧!」
母親の剣幕に碧霧は肩をすくめて見せる。
悪びれない息子の態度に千紫は手の平で額を押さえた。
「……余計なところばかり伯に似おって」
千紫がため息混じりにぼやいた。
そこには夫に対する敬意も愛情も感じない。よく自分が生まれたなと碧霧が感じる瞬間である。
「分かっているであろう。今、洞家の者たちは我が娘をそなたに
「俺にじゃない。伯子にだ」
「なればこそ。このままだと、どの家にも角が立たぬよう全ての洞家の娘を召し出すことになるぞ」
「冗談。腹の黒い女の相手なんて遊びで十分だ」
思わず碧霧が吐き捨てると、母親がいい加減にしろとばかりに睨みをきかした。さすがに言い過ぎたと思ったが、素直に謝る気にもなれず、彼はバツの悪い顔でそっぽを向いた。
そんな彼に向かって、千紫はあらたまった口調で言った。
「
「は?」
いつの間にそんな話を勝手に進めて──。
「それは、母上の筋書きどおりってこと?」
碧霧が皮肉たっぷりに言い返せば、千紫が平然とした顔で首を傾げた。
「筋書きも何も、最初からそのつもりでおまえを育てた」
母親は博学子並みの知識を持ち、学問における碧霧の師である。
本来なら、今ここで千紫が目を通している書類も父親の仕事だと碧霧は思っている。
しかし、父親は決断はするが実務はしない。伯座に座り、鬼伯として大号令を出すだけだ。
それを裏(と言うより、すっかり表だが)で支えているのが正妻である母親で、おそらく今の北の領の内政は、彼女抜きでは回らない。
「父上は、この話を承諾しているのか?」
「無論。後継者を決めることは
「ふうん」
本当かな、と碧霧は思った。
正直、父
もともと学問は母親に、武芸は
近頃では衝突することもしばしばである。先日も、西の山の管理について意見が分かれ、父親の補佐役である
「とにかく分かったよ」
碧霧は話を打ち切るために立ち上がった。
父親が自分のことを認めてくれているかどうかは、はなはだ疑わしいが、伯子として指名するというのなら従うしかない。
それにどうせ、洞家や家元のいわゆる「お姫様」たちにはがっかりしていたところだった。彼女達は、「伯子」に気に入られることしか考えていない。
なんだそれ、と碧霧は思う。
誰かに気に入られることでしか、自分の存在価値を見いだせないなんて、最初から自分は付属品だと言っているようなものだ。
奥の方という自立した母親の姿を見て育った碧霧には、そんな姫たちの姿があまりに愚かしく見えていた。
「それよりも、今日は
今日、遠乗りに出ていた真の理由だ。紫月に出会ったのは、たまたまの幸運だった。
すると千紫が難しい表情で首を左右に振った。
「来てはいるが、今は無理であろう。南西部の
「沈海平で反乱って──、だから俺が言ったのに!」
それを聞いて、碧霧はにわかに目をつり上げた。
「
しかし、いきり立つ碧霧に対して、千紫はさして動じる風もなく冷めた顔を返した。
「確かにいたが、その場にいた洞家を含む誰をも納得させられなかったのは、碧霧おまえ自身じゃ」
痛いところを突かれて碧霧は言葉に詰まる。
同時に、母親はこうなると分かっていたなと怒りが込み上げてきた。
こういう時、母親は議論の成り行きを見守っているだけだ。母親である前に鬼伯の正妻である彼女は、自分の立場をよく理解していて、それが正しいと思っていても公の場で夫を差し置いて息子の肩を持つことはしない。
彼女なりの厳しい指導の一環と言えばそれまでだが、とは言え、他に及ぼす影響が大きすぎる。
「父上のことだ。どうせ力でねじ伏せるつもりだろ」
「さあ、それはどうだか」
「誤魔化すなよ。今までだってそうしてきた。でも、それじゃ根本的な解決にならない」
「では、その意見を伯に申し上げろ」
「父上は俺の意見なんか聞かない」
意見を聞いてくれるなら、今の合議にだって呼ばれるはずだ。「
(何一つ思い通りにならない)
最後は、結局のところどうにもできない自分の不甲斐なさに腹が立った。
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