夜明けの読経

森林公園

夜明けの読経

 高校のころから飼い始めた猫だった。ブリーダーの知り合いの家に訪れた父親が、あまりの可愛さにその場で購入して連れて帰って来たのだった。父親のこういった思いつきの買い物に、辟易していた私たちだったが、今回は大歓迎だった。


 制服のスカートの上にチョコンと置かれた猫は、驚くほど可愛い容姿をしていた。それまで犬(今は虹の橋を渡ってしまった)だけを飼っていたので、そのフニャフニャした肢体はひどく新鮮に感じられた。


 『スコティッシュ・フォールド』と言う種類の垂れ耳の猫で、白と黒のブチは少し縞がかっていて、まるで『アメリカン・ショートヘアー』のようなグレイッシュな模様だった。瞳は薄緑色でまるで異国の色彩を放っている。


 家族全員で、その小さく美しい生き物にメロメロになった。最初は煙草の箱程度の大きさだったが、モリモリとキャットフードを食べ、丸々と大きくなっていった。気がついたら体重は八キロを超え、来客が初見で驚くサイズに成長した。


 実家が近いこともあり、結婚してからも猫に頻繁に逢いに行っていた。猫は、何処にいても私が訪れるとスラリと寄って来て、頭を脚に擦りつける挨拶をしてくれたものだ。猫は家族の中で自分が一番下とは思っていない。恐らく私が底辺で、その底辺に挨拶しに来てくれる素敵な猫だった。


 それまでノミにやられたり、尿結石になったりはしたものの、大した大病もせず十六年も生きた。そのまま尻尾が分かれて、いつまでもいつまでも生きるかと思っていた。だから具合が悪くなったのは、青天の霹靂のように本当に突然のことだった。


「猫の呼吸がおかしいのよ」


 母親から切羽詰まった電話がかかって来たのは、夜の十一時過ぎのことだった。「年齢的に考えてしょうがない」と、どこかで諦めてはいたのだけれど。スマートフォンを持つ手が知らずに震えてた。


 何と言っても、高校生のころから飼っていた猫だ。気づいたらひとりでに涙は止まらず、夫に慰められてもその夜はなかなか眠りにつくことができなかった。哀しみのせいだけでなく、その夜はとても寒かったせいもあるかも知れない。


 明け方、目覚めたのは心配からだけではない。尿意でもなかったし、もちろん寒さのせいでもなかった。目は開いていないのに、意識だけが確実に覚醒に向かっていた。耳元で吐息のように『何か』の気配を感じたからだ。


 嗚呼、猫が来た。私はそう思った。髭の先端が頬にちくちくと当たる。やがて顔に彼のふわふわの身体が擦りつけられた。実家のこたつで寝ていたとき、頻繁にこのようにされて起こされたものだ。


 布団から腕を伸ばして、猫の頭を撫でてあげようとするが宙を切る。すると耳元へ、猫とは思えない吐息が突然吹きかけられたのだ。湿った唇を開く、「むぱ……」という擬音までわずかな生暖かさとともに聞こえた。


「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」


 低いひくい年寄りの男の声だった。まるで耳元に口をつけて、直接喋りかけられたかのようなその震えに、思わず小さな悲鳴を上げて飛び起きる。しかし、隣の布団では夫が眠るばかりで、他の人の気配はもちろんなかった……。


 時刻はちょうど朝四時ごろで、そのとき携帯に母親から連絡がきていたことに気づけた。そのメールで、猫は少し前に母親の布団に入って来て、彼女に寄り添うようにして亡くなったことが知れた。


 私は、先程の声は猫が『お別れ』を告げに来たのだと勝手に思い、それと同時にあの声を怖がってしまったことを申し訳なく思った。猫はちょうど人間にすると、お爺さんに当たる年齢だったからだ。


 次の日、母親から『猫を動物専門の葬儀場に連れて行く』とメールで連絡が来た。最期の別れをしたいと願い、雪が振りしきる中、実家に向けて車を走らせる。雪が吹きすさび、天気までも物悲しい雰囲気だった。


 母親は泣きながら私を待っていた。猫は段ボールの中で、庭に咲くピンク色の椿(乙女椿)の花と一緒に納められていた。兄の子どもが入れてくれたらしい。まだ五歳の彼は、猫がただ眠っているだけだと思っているのが切なく思えた。


「可哀想で、俺は持てない」


 そう早口で言う兄の代わりに、私は猫が入った段ボールを持って、彼が運転する車の後部座席に乗り込んだ。辿り着いたペットの葬儀場は、昔犬でもお世話になったところで、宗派も実家と偶然一緒なのだ。


 通されて暫くのち、猫を焼く前にお坊さんがお経をあげてくれた。暫く唱えあげたあと、『ソレ』を聞いて、私は思わず声を上げそうになった。正座をわずかに崩して右手を咄嗟に口に当て、堪える。


「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」


 それは、猫が亡くなった時刻に聞こえた男の声と全く同じに感じられた。私は急に恐ろしくなって、ひゅぅっと小さく息を吸い込んだ。声を聞いたことがあるのは、私だけなのだ。母親も兄も動じていなかった。


 すると、お経を黙々と読む住職の傍らを、すいっと何かが通り抜けて来るのが見えた。その部分の背景がまるで陽炎のようにゆらゆら揺らぐのだ。透明な『何かが』こちらに歩いて来るようで、私はじっとそれに向かって目を凝らした。


 それは私たち三人の傍にテトテトと恐らく四つ足で歩いて来て、右端に座る私、母、兄の順に、それぞれの膝に身体を擦りつけて行った。しかし朝方とは違って感触は全くない。その代わりに、ひるがえる尻尾が見える気がした。


 私は、それに色がつかないか、まるで祈るように見つめ続けた。姿が見えない猫は、立ち去る前にこちらにくるりと振り返ったようだった。「ニャー」と鳴く声は聞こえなかったが、開けた口の赤い色だけ、見えたような気がした。


「さっきのお坊さんのお経、私……明け方に聞いた」


 帰り際、思いきって兄にそれを打ち明けた。だが兄はそう言った話が嫌いなのか、猫を入れて来た段ボールを今度は彼が引き受けて、何も答えなかった。来るときは雪が降っていたのに、帰りは不思議と雲も流され、晴天が広がっていた。


 数日後、晴れて雪が溶けたころ。猫が実家に戻ったらしい。これはあとになって私の母に聞いた話だが、リビングの曇り硝子越しに、亡くなったあの子と同じ、白色と灰色柄の猫が透けて見えたそうだ。


 母親は喜んですぐに扉を開けたのだけれど、そこにはもう何もいなかった(見間違えたかもしれない、他所の猫すらいなかった)。兄の感想は聞いていないが、私と母は、愛猫の魂が自宅を探して戻って来たのだと信じて疑わなかった。


<了>

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夜明けの読経 森林公園 @kimizono_moribayashi

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