第2話 記憶喪失

 凍える夢を見ていた。


「……さま!」


 その冷たさは身体の芯まで届いて、微かに瞬く胸の光の息の根を止めてしまった。


「起きて下さい聖女様!」


 乱暴に揺り動かされて目を開けると、ため息をついた女性が吐き捨てるように言った。


「もう日の出です、時間がありませんよ。急いで下さい」


 意味が分からない。とりあえず起きたらいいの?

 わたしは白いベッドにいて、ここは燭台の灯りだけの小さい部屋。ひと目でどこに何が置いてあるのか分かるくらいに質素だった。


 だから寒かったのかしら?


 その様子を見て侍女は、足音を立てて近付くと、薄い掛布をはいで怒った。


「早くして下さい! 間に合いませんよ!」


 そうして待っていられないとばかりに力づくで足を下ろさせ、櫛でバリバリと髪をといた。長い金髪が無造作につかまれ、櫛に何本も抜けた髪が見えた。


 ガリッ


 額の傷をひっかいて小さく悲鳴が出たけれど、侍女は気にもしなかった。わたしも何故か何も言えないで大人しくしている。


 ポタッ


 傷から血が滴り落ちて、侍女はますます苛立ち、舌打ちをした。


「さあ脱いで! 早く!」


 汚れてしまったから着替えなくてはならないんだな、と思った。でも脱ぐまでもなく服を引っ張られ立ち上がると、巻き付けられているだけの布はくるくると解かれ、あっという間にわたしは裸になっていた。


 寒い。恥ずかしい。心もとない。


 そう思うのも束の間、ぐいぐいと腕を引かれて部屋を出ると暗い階段がある。降りろと背を押されて、吸い込まれるように足を下ろした。侍女が燭台を掲げると、ますます闇が濃くなった気がする。


 カツカツと響く侍女の靴音に追い立てられて、ヒタヒタと石の階段を裸足で降りてゆく。

 やがて水の流れる音が聞こえ、石段が終わった。揺れる灯りの中に、小さな水場が見える。


「さあ、早く浴びて! 今日はもう、しっかり拭いている時間はありませんよ!」


 浴びる?

 侍女は質問の暇もくれなかった。燭台を壁に据えると、乱暴に水場へ立たせて、杓で何杯も冷たい水を頭からかけた。


「やめて! 冷たい! やめて!」


 侍女はやめなかった。かけていない場所がなくなるまでかけて、わたしはガチガチと震えた。宣言通り被せられた布一枚が、あり得ないほど温かく感じる。


「さあ、上がって! 急いで!」


 階段をかけ上がり、先ほどではない扉を彼女は開けた。


 それは神聖な場所だった。

 足裏にふかふかとした苔を感じて、見渡せば円形の敷地は豊かに覆われている。中央には何百年も生きているような巨きな樹が天を目指して伸びていて、たわわに伸ばされた枝の隙間から、明けそうな空がのぞいている。

 美しい空間。ずっと眺めていたいくらいに。わたしは寒さを一瞬忘れてその光景に見入った。


「なにをしているのです! 早く祈りを!」


 静寂はすぐに破られて、離れたところから怒鳴った侍女を振り返る。


 祈る、とは?


「早く! 明けてしまう!」


 夜が明けてしまう前にということは理解できたけれど、どうすればいいのか分からない。

 自分なりに目を閉じて、何かを願うふりをした。


「どうしてひざまずかないの! 一体今日はどうしたっていうんです?」

「どうすればいいのか分からないの」


 ようやく聞いてくれたので、素直に訊ねることができた。


「はあ?」

「祈るって、なあに?」


 侍女は自分の耳が聞いたものを理解できない風だった。


「────聖女様は毎日、日の出前と日没後に祈りを捧げるのです」

「聖女様ってなに?」


 しばらくの沈黙。

 そして、わたしがそれをまったく分からないことを理解した侍女は、恐ろしい悲鳴を上げた。


 遠くから響く美しい鐘の音が届いた。

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