不器用な恋と美術室

分福茶釜

不器用な恋と美術室

 私は絵を描くのが苦手だ。

 目の前に置かれた花瓶と挿された一束の花を上手く描けないのではなく、それらを美しく彩るための色遣いが分からないのだ。

 花瓶はくすんだ白茶しらちゃ色をしていて、よく見ると微かにヒビが入っており、年季が入った骨董品であるのが分かる。

 花は一見美しい薔薇色だが、茎の棘は全て切り取られ、心なしか枯れかけているように見える。

 今にも脆く崩れてしまいそうな――危うくて、寂しいモノたち。

 それが私が感じ取った全てで、揺るぎようのない真実だった。


 私は最初、ありのままを描いて提出した。

 美術の授業の課題で、担任の先生から合格を貰わなければ良い内申を得ることはできない。

 気乗りはしなかったがサボるわけにもいかず、全体的に暗めの色合いでキャンバスを埋め尽くし、我ながら会心の一作ができたと思った。

 しかし先生はただ一言、苦笑いで。


『私は、こういう絵は好きじゃないかなぁ』


 そうして今。

 私は放課後の美術室に一人残って、黙ってキャンバスと向き合っている。

 何も描かれていない巨大な空白は写し鏡のようで、ぼーっと見入ってるうちに吸い込まれてしまいそうだ。

 集中力はとうにない。

 正直、全部投げ出して帰りたいと思っている。


 先生はきっと綺麗な絵が好きなのだろう。

 線がしっかり引かれていて、ヒビや棘といった不穏な要素のない、明るくて華やかな目を奪われるほどの絵が欲しいのだ。

 そこにきっと悪意はない。

 先生が期待していたのは、学生らしい情熱的な絵だったのだから――意に沿わない駄作を出した私が悪いのだ。


 なら私は一生、ここから出られないのだろうか。

 見ていないものを描けるほど器用ではないし、物事を大げさに表現するのも気恥ずかしくて苦手だ。

 現に花瓶は傷つき、花は枯れかけている。

 他の皆が普通に描き、先生が望んでいるような綺麗な絵など描ける気がしない。


 ――どうせ完璧にできないのなら。


 右手に握った鉛筆を隣の机に置きかける。

 これ以上真っ白なキャンバスを見ていたら、無性に虚しくなってきて、そのまま押し潰されてしまいそうになる。


 ――もう諦めてしまおうか。


 暗い考えが頭の中を過ぎり始めた、その時だった。


「あれー? 居残りですか、先輩?」


 後ろの扉が開けられたかと思うと、一人の男子が気さくに声を掛けてきて、私の隣にある椅子に腰掛ける。

 彼は私の後輩で、何故かは知らないが度々ちょっかいを掛けてくる面倒な人だ。

 どうせ珍しく居残っていることをいじり倒してくるに違いない。

 今までの付き合いから確信できる。


「珍しいですねー。そのキャンバスは課題か何かですか?」

「……うん」

「真っ白ですけど……もしかしてサボり?」

「違うから。ただやり直してるだけ」

「再提出ってことですか?」

「そう。だから君みたいな不真面目くんと一緒にしないで」

「酷いなぁ。最近はちゃんと授業に出てるし、課題も出してるのに」

「注意して一カ月も経ってないでしょ」


 彼はかなりのサボり魔だ。

 少しでも監視の目を緩めると、保健室やら屋上やらで惰眠を貪ってしまう。

 しかし成績はそこそこ良く、私のような偏屈な人間とも打ち解けられるコミュ力があるためか、基本的にお咎めなしで済んでいるらしい。

 正直、羨ましいとは思う。

 同時に彼のようにはなれないだろうし、なりたくないなとも思う。


「相変わらず真面目だなぁ、先輩は」

「……うるさい」


 真面目で結構。

 サボって怒られるより、よっぽどマシだ。


「それより先輩。前の絵、見せてくださいよ」

「えっ?」

「やり直しを要求されるぐらい下手なんでしょ? 逆に見てみたいです」

「……君ねぇ」

「いいじゃないですか。ほら、可愛い後進のために。ねっ?」


 全く可愛げなど感じられないが、無下にする理由もない。

 隣に立てかけていた不合格の絵を手に取り、ため息を吐きながら彼に渡す。


「あれ、めっちゃ綺麗じゃないですか! えっ、これでダメなんですか?」

「うん」

「何で? 理由は?」

「分からない。先生の好みの画風じゃなかったから……だと思ってる」


 彼はとても不満げだった。

 何度も唸りながら首を傾げ、時折絵を前後させながら凝視する。

 そんなに気に入ったのだろうか。

 不思議と心が軽くなるのとともに、少し照れ臭くなる。


「先生に抗議とかしなかったんですか?」

「抗議なんてそんな……しないよ。また別のを描けばいいんだから」

「でも先輩、描けてないですよね。線一本も引けてないですよね」

「それは……また今度、やるつもりでいるから」

「本気ですか?」

「うん」


 嘘だ。

 本当はもう、新しい絵を描く気力なんてない。

 全てを出し切ったとまでは言わないが、少なくとも華やかに描き切ることだけは、どうしてもできなかった。

 嘘を吐くのが怖かったり、手を抜くのが嫌なわけではない。

 ただ純粋に、目の前に置かれた花瓶と枯れかけの花を、キャンバスの中に写したいだけだった。


 もっとも、そんなことは誰も望んでいなかったのだが。


「だからもういいよ。気にしないで」


 私は立ち上がり、真っ白なキャンバスを額縁に入れると、教壇の横に置かれた作品用のスタンドに並べる。

 後で自分のだと分かるように、先に置かれてあったクラスメートの作品とは少し離して立てかける。

 そして用具の片付けをしようと、後ろを振り向いたとき、


「ねぇ先輩。ちょっと書き足してもいいですか?」

「えっ……?」


 思わず変な声を漏らしてしまう。

 彼は失敗作の絵をイーゼルに乗せて、様々な色を乗せたパレットを左手に、まだ使ってない細筆を右手に持っていた。

 冗談のつもりかと最初は思った。

 しかし、どうやら違うらしい。


「これ、本当に良い絵ですから。少し手を加えれば、絶対に先生も認めてくれますよ!」


 彼は熱を込めて断言する。

 どこからその自信が湧いてくるのか、私には全く分からない。


「それは……無理だよ」

「何でですか?」

「だって、全体的に暗いタッチで描いたから。ぼんやりとして、陰鬱な感じで……ここから華やかになんてできないよ」


 首を横に振って否定する。

 散々悩み抜いて、これ以上の絵は描けないと悟ったのだ――手心だけでどうにかなるはずがない。

 思わず眉間に皺が寄った私に、しかし彼は柔らかく笑う。


「……先輩って本当に真面目ですね」

「なっ」

「不器用だし、サボるの許さないし、見たままの通りにしか描けないし」

「……馬鹿にしてる?」

「褒めてるんですよ。何だったら尊敬してます」


 そう言いながら、細筆の毛先に黒色を染み込ませる。

 本当に描く気だ。

 いくら不合格になった絵であろうと、自分が描いた絵には変わりないので、変な修正をされないか心配になる。

 なので私は、いつになく真剣な表情の彼に問いかけた。


「君、何をしようとしてるの」

「簡単な話、線を濃くしようと思いまして」

「……何で?」

「まぁ、見ててくださいよ」


 そうして彼は何の躊躇もなく、滑らかなタッチで花瓶の輪郭をなぞっていく。

 丁寧に、丁寧に。

 やがてキャンバスの上に、私が描いたモノたちが浮かび上がってくる。


「あ……」


 時間を掛けた花びらの造形も、彼の繊細な筆遣いで整っていく。

 絵そのものは何も変わっていないのに、まるで少しだけ時間が巻き戻ったかのような――若々しく、迫力のある絵に変化していく。

 魔法でも見ているかのようだった。

 薄ぼけた背景の中心で、花瓶と花々が確かな存在感を放っている。

 今にもキャンバスから外へ飛び出てきそうで、私の絵が元になったとは思えないほど力強く感じた。


 やがて彼は筆をペレットに乗せ、小さく息を吐く。

 精悍な眼差しを閉じ、再び瞼を開いたときには、すっかり元の悪戯な後輩に戻っていた。


「終わりましたよ、先輩」

「……ありがとう」

「いえいえ。その代わり、貸し一つということで」

「っ……分かってる」

「言いましたね? じゃあ今度サボっていても、怒らないでくださいよー?」

「分かったってば……全く」


 魔法から覚めて、現実に引き戻される。

 そういえば彼はこういう人間だった。

 殊勝な態度で手伝ってくれたのも、最初からサボりのためだったのだろうか。

 見事な手際に一瞬でも見惚れてしまった自分が物凄く恥ずかしい。


 呆れながら、修正された私の絵を改めて見る。

 もはや非の打ち所などないように感じられるが、一つだけ気になる点があった。


「……花瓶のヒビ、消さなくてよかったの?」

「え、何でですか?」

「だって、せっかく整えてくれたのに。何だか合わない気がして」


 逡巡する私に対して、彼はゆっくり首を横に振る。


「大丈夫ですよ。むしろこのほうが味があって、より絵に厚みが増すと思います」

「そうかな」

「はい。俺は別に、このままでも構わないかなって」

「……そっか。分かった」


 そう言い切られると、あまり下手に言い返せない。

 私としても、さらに手を加えて変な感じになるのは望まなかったので――適当に納得しておくことにする。


「ところで先輩。一つ聞きたいんですけど」

「ん……何?」


 それは唐突な問いかけだった。


「この絵は何を思って描いたんですか?」

「え?」

「ほら、先輩は真面目な人だから。何の考えもなく、暗いタッチの絵は描かないだろうなーって。そう思ったんですけど……どうなんですか? 実際」


 彼は私をじっと見つめる。

 まるで心の内側を覗き込もうとしているかのようだ。

 しかし不思議と嫌悪感はなかった。

 気づけば私は口を開き、恥ずかしさを覚えながら曝け出していた。


「……あの時は、残さなきゃって思ってた」

「へぇ」

「寂しさと危うさと、儚さみたいなものを感じたから。それを絵に描いて残したいなって……そう思ったの」

「おぉ。何か芸術家みたいですね」

「っ……もうっ」


 我ながら何を言っているのだろう。

 身体が火照るのを感じながら、それを隠そうと咄嗟に俯く。


「早く忘れて。恥ずかしいから」

「いいじゃないですか。先輩らしい答えで良いと思いますよ?」

「……そろそろ怒るよ」

「ご自由にどうぞ。散々怒られてますし、今さら怖くないですから」


 ――このサボり魔め。


 忌々しく睨みつけると、彼は悪戯な笑みを浮かべて笑う。

 生意気な後輩ぶりを相手にしているうちに、今まで悩んでいたことが何だか馬鹿らしく思えてきた。

 案外、綺麗な絵を描くよりも、彼を上手く手懐けるほうがよっぽど難しいのかもしれない。


「まぁ、これでいいんじゃないですか。きっと先生も合格出してくれますよ。というか出さなかったらヤバいです。依怙贔屓えこひいきです」

「……そうだね」


 小さく頷き、頬を緩ませる。

 楽観的とまではいかないが、少しだけ肩の荷が下りた気がする。

 自分が描いた絵に自信を持てるようになったのは、きっと――彼のおかげだ。


「じゃあ片付けましょうか、先輩。もう部活動も終わる頃ですし」

「うん」


 彼はパレットと細筆を洗いに、私は教壇横のスタンドへ向かう。

 静かな室内に流れる水の音を聞きながら、額縁から真っ白なキャンバスを取り出し、私の――私と彼の絵を新たに納める。

 そして額縁をスタンドの端っこに立てかけると、自分の席に戻り、綺麗に拭かれたパレットと細筆を自分のケースの中に仕舞った。

 その間に彼がイーゼルを折り畳み、美術室の後ろに並べてくれる。


 これで一通り片付けは終わった。

 一人だったらきっと、いろんな意味で時間が掛かっていただろう。


「……これでオッケーですかね」

「大丈夫だと思う。ありがとう、手伝ってくれて」

「いえいえ。サボりのためなら何でもしますよ」

「はいはい」


 相変わらず茶化してくる彼に相槌を打ち、私はスクールバッグを肩に掛ける。

 校内には夕焼けの光が差し込んでいて、カラスの鳴き声と日没を告げる町内放送が聞こえてくる。

 今日はもう学校に用事はない。

 外が暗くなる前に、早めに帰ろう。


 私はそう考えていたが、しかし不真面目な彼は楽しそうに言った。


「あっ、先輩! 帰りにコンビニ寄っていきません?」

「……何で?」

「せっかくだし、何か一緒に買って食べたいなーと思って。ダメですか?」


 一瞬、心が揺らぐ。

 たまには彼のワガママに付き合ってもいいかもしれない――しかし私の真面目な性格が、下校時の買い食いを良しとしなかった。

 故に首を縦に振り、きっぱりと断る。


「ダメ。先生に叱られるから」

「えーっ」

「もう時間も遅いんだし、不満そうにしない。分かった?」

「……分かりました」


 彼にしては珍しく素直に引き下がった――いつもならもっと、小さい子どもみたいに駄々をこねるのに。

 こんな日もあるんだなと、少し驚く。


「それにしても懲りないね、君は。会うたびに誘われてる気がするんだけど」

「そりゃあ誘いますよ」

「何で?」

「だって――」


 一瞬、彼が息を吸う音。

 ぱっちり開いた黒色の瞳と視線が重なる。

 そして。


「――俺、先輩のこと好きですから」


 不意に胸が弾む。

 急に身体が熱くなって、頬がピシッと引き締まる。

 そんな私の固まった顔を見て、彼は楽しそうに笑った。

 次いで茶化すように告げる。


「なーんて。冗談ですよ。好きなのは本当ですけど、あくまで友達としてですから」

「……そっか」

「そうですよ。もしかして本気だと思いました?」

「まさか。からかってるだけでしょ。分かってるから。大丈夫」

「……ならオッケーですっ」


 そうして彼は目を逸らすと、背中を向けて廊下に出た。

 私のいるほうを振り返り、いつもの明るい声で呼びかけてくる。


「じゃあ帰りましょうか、先輩」


 私は無言で頷いて、二人並んで歩き出す。

 心なしか彼の歩幅に合わせて、時間がゆっくり流れていく。

 さっき感じた胸の高鳴りは、気づけばすっかり落ち着いていた。

 きっと彼は私と違って、何とも思っていないのだろう。


 今の私たちの関係は、同じ学校の先輩と後輩。

 それ以下でもなく、それ以上でもないのだから。


 ――やっぱり君は苦手な人だ。


 距離感が近いし、サボり魔だし、不真面目で適当な性格だし。

 そのくせ私ができないことを平然と終わらせてしまう。

 私と正反対なぐらい器用で、こんなに羨ましく思うことはない。


 ――でも君は、いつも私に教えてくれる。


 私は一人ではないこと。

 私の不器用で真面目な性格を、受け入れてくれる人がいることを。


「ねぇ先輩」

「何?」

「手、繋いでもいいですか?」

「……ダメ」

「どうしても?」

「ダメったらダメ。諦めて」

「……はーい」


 この想いを打ち明けるまでに、どれほどの月日が流れるだろう。

 彼と離れ離れになる前に伝えたいとは思っている。

 しかしそれは今じゃなくていい。

 夕焼けに染まった長い廊下を、今はもう少しだけ一緒に歩いていたい。


 きっと君は知らないから。


 私がどれぐらい君を、かけがえのない人だと思っているのかを。

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