第93話 恋の病
紫檀がはぁとため息をつけば、表情を緩めてくれた。しかし、眉間のしわは僅かに刻まれたままだ。
「悪い。違う。あのな、ここはどこだ?」
「ん? 紫檀の部屋だろ?」
「そうだ。で、今、どういう状況かわかってんのか?」
「んん? 紫檀の部屋で話し合い、だが?」
小さな舌打ちが聞こえた気がしたが、ずいっと紫檀がこちらへ近寄り、袂から先程渡した華火の文を取り出す。
「華火は送り狐の統率者として頑張るんだな?」
「そうだ。それはこれからも変わらない目標だ」
「だから俺もな、最近はきちんと線引きしてるつもりだ。華火が成長する姿を見ているの、楽しいのよ」
途中で言葉遣いが戻った紫檀に、安心感を覚える。そういう理由があっての事ならば、華火も気を引き締めようと思えた。
「問題は次だ。忘れていいんだな? 華火の想いは」
声に出されれば、かっと頬が火照る。紫檀はきっとわかっている。それが嘘である事に。
「ちゃんと答えろ。忘れてほしいのか?」
逃げる事を許さないように、俯きかけた華火の顔を紫檀が覗き込んでくる。
「忘れて、ほしくない……」
「ならそう言えよ」
納得してくれたようで、紫檀は文を袂へ戻す。
しかし流れるように華火のあごを持ち上げれば、強い眼差しを向けられた。
「恋に早いも遅いもねぇよ。そんな単純なもんじゃないってわかってんだろ? なら、今向き合え。一緒に成長しろ。わかったか?」
それはこれからもずっと紫檀を想っていいと、そういう事か?
そう捉えてしまう程、紫檀が華火をずっと受け入れてくれると勘違いしてしまいそうになる。それが顔に出ているであろう程、全身が熱い。
それでも、彼の藤色の瞳を見つめながら、頷く。
「あとな、迷惑なんて考えてんなら、俺だけに掛けろ。俺の事は俺にぶつけろ。俺はこれっぽっちも迷惑だなんて思ってねぇよ。今な、俺は思い知ったんだ。こうなる事を望んだのは俺の方だ」
どういう意味だ?
何故紫檀が? という思いに、自然と首が傾く。
「あのな、こんなわがままな俺に時間をくれて、待つと言ってくれた華火だからだ。わかってねぇ顔してるけどな」
「紫檀はわがままではないぞ?」
「もう勘弁してくれ……」
華火のせいで紫檀が苦しげだが、どうすればいいのかわからない。
しかし、彼が視線を外し軽く頭を掻けば、またこちらを見た。
「いや、いい。今のは忘れてくれ。俺が慣れるしかねぇよな。華火は素直すぎんだよ。誰に対してもな」
紫檀はそれだけを言い、華火のあごを持ち上げていた手をすっと離した。
けれど、華火は紫檀を見つめ続けた。どうしてか、彼の瞳に悲しみが混じったように見えたからだ。
「こうして打ち明けられたのは、華火のお陰だ。ここまで言葉する事が出来た。あとはもう、俺次第だ。だけどな、華火は違う。最初の恋ってやつは、盲目になり過ぎるもんだ。だからこそ、今一度、よく周りを見てみろ。男は俺だけじゃないだろ? 本当に俺がいいのか、よく考えろ」
そう、なのか?
言われてしまえばそれが真実のように思えてしまう。けれど、華火の中では答えが決まっている。
だから想いを伝えようとすれば、紫檀の大きな手に口を覆われてしまった。
「今は聞かねぇよ。華火が幸せになれると思える相手だけを考えろ。考え抜いても俺だけなら、その時に伝えてくれ。それまでには、俺も気持ちを整えておくから」
これだけ長く想い続けている相手だ。それなのに、紫檀が華火を受け入れる準備をするような事まで告げてくる。
嬉しさよりも戸惑いが大きく、申し訳ない気持ちが込み上げる。
「俺は、華火が幸せならそれでいい。たとえそれが、俺を見ていなくても」
紫檀の言葉は本当なのだろう。
けれど、そんな顔をしないでくれ。
華火の口から手を離し、切なそうに目を細めて微笑む紫檀へ、頷く事などできない。普通なら、それが彼の幸せならと思うのかもしれない。
でも、華火は違った。
「私は、共に幸せになりたい」
はっきりと声が出せる。何も混ざる事のない、純粋な願いだから。
紫檀の目が見開かれるが、華火は喋る事をやめない。
これを伝えるのは、追い詰めるのかもしれない。
それでも再度、口にする。
「前にも伝えたが、怖い事があったとしても、私がいる。頼りないだろうが、ずっとそばにいる事はできる。これが私に出来る約束だと。それをこれからもずっと忘れないで――」
最後まで言い終わらない内に、紫檀が距離を詰めてきた。もう唇が触れそうな程、彼の熱を感じる。
だが急に顔を背け、華火を乱暴に抱き締めてきた。
「……なし崩し的に進めたくねぇんだよ」
「な、何がだ?」
口付けでもされてしまうかと思った自分を恥じて、華火の声がひっくり返る。
すると紫檀は軽く笑い、華火の手を引いて立ち上がった。
「何でもないわよ」
普段の紫檀に戻ったように思えたが、彼の瞳には別の想いが宿っている。それが何かわかる前に、華火はくるりと向きを変えられた。そしてそのまま背中を押され、入ってきたふすままで歩かされる。
「でもね、あたしが我慢できる内に帰りなさいな」
後ろから守られるように抱き締められ、耳元で囁かれる。
先程の事も相まってか、華火は熱さでくらくらしてきた。
「それとも、帰りたくない?」
帰りたくなかったら、どうなるのだ?
ふと、疑問が浮かぶ。だから想像すれば、口付けよりも先を考えてしまい、恥ずかしさで震えてしまう。
「あら? からかい過ぎたわね」
それだけ言うと、紫檀は何事もなかったように離れ、華火の前に滑り込む。静かに廊下を覗く彼の姿を眺めながら、華火は深呼吸を繰り返す。
「今なら誰もいないから。早く行きなさい」
「今日は、ありがとう」
「こちらこそよ。おやすみ」
「おやすみ」
小声でのやり取りを終えれば、ふすまがゆっくりと閉じた。
夢のような時間が終わる。けれど紫檀の言い付け通り、部屋へ直行した。
紫檀……。
行灯の明かりを消し、急いで布団へ潜り込む。
紫檀の大切な想いを無理やり聞き出してしまった事には申し訳なさを感じる。しかし、これで彼の苦しみも少しは理解できるようになれた。
大切な者と共に生きるという事は、時に励まされ、時に残酷さを味わうものなのだろう。
だからこれからも紫檀を支え、力になりたいと強く思う。
初めての恋、か。
周りをよく見ろと言われたが、今、この瞬間の自分には無理だろう。
華火が溢れる想いを抱き締めるように自身を包めば、未だ残る紫檀の腕の中を感じ、幸せに包まれたまま眠りに落ちた。
***
急に温度が低くなったように思える部屋の中で、紫檀は壁にもたれながら華火からの文を読む。
太さも違えば、揺れるように書かれた文字。
これを見ているだけで、こんなにも胸が苦しくなるなんてな。
目を通せばすぐにわかった。
それ以前に、泣き腫らした華火の顔を見たら、返すわけにもいかなかった。
それだけ、強く想われている事を再度自覚させられ、紫檀は嬉しさと同時に恐れを抱いた。
けれど、華火だけは違うとも、わかっている。
今まで出会ってきた女は、駆け引きを楽しんだり、都合良く扱える存在として俺を見ているのがほとんどだった。
それならそう演じるだけでいい。
その内、俺が理想と違うと、勝手に幻滅して離れていくから。
でも、華火は違った。
駆け引きなんてもんは、はなからねぇし、そのままぶつかって傷付いて。
でも、その傷が塞がらなくても俺と向き合おうとしてくる。
だから、愛おしい。
それでも、今すぐには受け入れられない。
その気持ちが、紫檀を引き留め続ける。
ここに、華火がいなくて良かった。
文をたたみ、ずるずると座り込む。
残る選択をされていたら、まだ恋を知ったばかりの華火を無茶苦茶にしてしまっただろう。
俺は、あんな風に真っ直ぐ愛せない。
同じように愛せたなら、ここまで悩まねぇのにな。
俺は、水木みたいになりたかった。
でも、俺の中にあるのは――。
確かな形で残る、紫檀の中にある愛。
それはとても歪で、その想いに捉えられたからには逃してもらえないものだ。
だから、華火を幸せにする自信がない。
むしろ、他の男の方が遥かに明るい未来が待っているだろう。
俺が桔梗を想い続けるのは、それにしか救いがないから、だ。
華火と向き合う度に、思い知らされる。
紫檀の愛し方は桔梗のそれだと。
だから、選択を委ねた。
その結果、自分を見なくなってもいい。華火の幸せを願うのは確かなのだ。
なのに、卑怯だとわかっていても、自分を選んでほしいと願ってしまう。
その時初めて、紫檀は本当の気持ちを口にできると、思ってしまった。
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