第92話 紫檀の中にある思い出

 紫檀の部屋には、彼と華火の影だけが行灯によって作り出されている。 

 しばし訪れた静寂の中、華火はうるさ過ぎる心臓を無視し、紫檀の様子だけをずっと窺っていた。


「何よ、これ」


 読み終えたであろう紫檀が、ぽつりと呟く。


「これが、今の華火の気持ち?」


 かさりと音を立て、紫檀が文をたたみ袂へしまう。

 でもその顔は、どこか怒っているように見える。


「これが、華火の本当の気持ちか?」


 いつまで経っても答えないからか、紫檀の話し方も変わってしまった。

 でも、華火は声を出せなかった。

 動いてしまったらもう、涙を我慢する事ができない。


「嘘はつくな。俺がそうさせてんのはわかってるけどな、だからって華火の気持ちを無碍にはしねぇよ」


 そう言いながら、紫檀がゆっくりと近づいてくる。


「こんなに目ぇ腫らして、何考えてたんだ? どんな気持ちでこれを書いたんだ?」


 そのような言い方を、しないでくれ。


 囁く声があまりにも優しくて、華火の目から涙がこぼれる。それを紫檀が当たり前のように掬い取った。


「俺は、華火の気持ちを受け止めたい。華火が俺を受け入れてくれたように。だから、本当に言いたい事だけを話せ」


 今だけ。それでも、紫檀が自分だけを見てくれる。

 その事実が胸を満たせば、想いが溢れ出す。


「紫檀の中には、ずっと、想う相手が、いるんだろう?」


 まさか最初に飛び出した言葉がこれとは。華火は入り混じる感情の波の中で、下を向き後悔する。自分の決意がこれ程ちっぽけであった事に恥ずかしさすら覚える。

 それなのに、紫檀が包み込むように腕の中へ華火を閉じ込めた。


「気付くよな、そりゃあ。華火が一番見てるもんな、俺の事」


 やはり……。


 それならこの場所にいるべきではないと、華火は紫檀の胸を手で押す。けれど、彼は動かなかった。


「でもな、どうにかなる相手でもない」

「どういう、事だ?」


 無言で微笑む紫檀が、華火の顔を丁寧に拭う。涙はもう止まったが、その行為が心地良くて甘えてしまう。

 その間も、片腕だけは華火を抱き締めたままだ。


「水木って覚えてるか? この前、青鈍と木槿むくげが話してた、あいつらを助けた奴の事」


 こくりと頷けば、紫檀が華火を抱き直す。

 彼の肌に直接頬が触れるも、幸福感と罪悪感がないまぜになり、酷く居心地が悪かった。


「俺が今でも想う相手は、その水木と恋仲だった桔梗ききょうっていう名の女狐だ。どちらも俺にとって、大切な存在だ」


 だから今でも、想いを秘めているのか。


 紫檀の覚悟は本物なのだと、華火は尊敬の念すら抱く。

 同時に、ここまで想う相手がいるのに何故、自分の事まで受け止めてくれようとしているのか、わからない。はっきり迷惑だと言えば終わるのだ。

 それでも面倒事と向き合ってくれるのは、紫檀なりの優しさなのだろう。


「その桔梗も死んだ。水木の跡を追ってな」


 まさか、そんな。


 胸に鋭い痛みが走る。何て事を言わせてしまったのかと、顔を上げようとした。

 けれど、紫檀の腕に力が入り、叶わない。


「悪いな。今だけは、このままでいてくれ」


 華火を落ち着かせる為にではなく、紫檀が見られたくないのだとわかり、力を抜いた。


「少し、昔話に付き合ってくれるか?」


 紫檀の心音が伝わる中、華火は彼にもわかるように大きく頷いた。


「はなからな、俺は気持ちを伝えようとは思ってなかった。水木を好きな桔梗が好きだったんだ。俺の理想がそこにあって、その完璧さを壊す事なんて、壊れる事なんて、考えてもいなかった」


 華火の知らない、でも知りたかった紫檀がここにいる。彼はもう昔へ戻り話し続けているのを、確かに感じる。


「霊力が上手く操れなかった俺を褒め続けてくれた桔梗。霊力の操り方や戦い方、終いにゃ女の扱い方まで教えてくれた水木。そのお陰で、今の俺がいる」


 紫檀にも、そのような時期があったのか。


 この社の中で誰よりも霊力の扱いに長けている紫檀だが、指南所でやっかまれた事を切っ掛けに新たな力へ繋げる努力をしていた事も思い出す。

 大切な存在が今も心の中にいるから、折れずにいられるのだろう。

 けれど、紫檀自身の心の強さの表れでもあると、華火には思えた。


「俺の生まれ育った所はな、武術もだが農業なんかも得意な奴が集まっていた。隠れ里ってわけじゃねぇけど、探し当てるのは難しい場所に位置してる。だから争い事も運良く遠ざけられてたんだ」


 紫檀の声が不意に近くなる。

 彼が顔を寄せて来た事実に、心臓が反応する。

 けれど華火を包み込む紫檀の腕が、微かに震えた。


「水木は特に強かった。上で指導するお役目に就いていた事もあってな。でもな、早めに戻って来た奴でもあったんだ。それだけ、水木は桔梗やみんなを大切にしていた。そんな奴だから、誰かの為には絶対に駆け付ける。それを桔梗も承知していたし、誇らしく思っていたのも知ってたんだ。あの日までは、俺はそれが全部だと思っていた」


 無理に話さなくてもいいんだ。


 もう紫檀の腕は震えてはいない。

 けれど声は掠れる。

 だから華火は彼の背に手を回す。

 向き合う事の辛さを少しでも和らげたい一心で。


「……助けを求められたが、相手が鬼だと知って、みんなが難色を示した。けれど、水木だけは違った。その考えを後押ししたのは、桔梗だった。『私達に出来る事をするしかないじゃない!』って、みんなに発破まで掛けて。不安はあった。それでも大丈夫だと、信じる事しかできなかった」


 紫檀の顔がゆっくりと華火の肩まで落ちてくる。くぐもる声に感情が滲み出し、華火は自然と紫檀を抱き寄せるように彼の背に回した手に力を入れた。


「戻って来たのは、訃報。それと、桔梗が御守りとして水木に持たせた、血で汚れてしまった彼女の髪だけ。言い終えた仲間が沈黙した時、誰も、声を出せなかった。誰も責められないし、責める者もいなかった。全員が決めて動いた結果だからな。その時、桔梗だけが受け取った袋の中から自身の髪を取り出していたんだ。彼女だけが動いていたんだ。その段階で、気付くべきだった」


 もう充分だと、言ってあげたい。

 でも紫檀の事だ。

 きっと、誰にも言わなかったのだろう。


 器用な生き方をしているようで、とても不器用に生きる紫檀が愛おしい。華火は溢れる気持ちを抱きながら、彼の今まで吐き出せなかった想いを受け止め続ける。


「『少しだけ、放っておいて』と、桔梗は言葉を残して立ち去った。全てを言われなくても、計り知れない悲しみを受け止めるには時間が掛かるなんて事は、わかりきってる。だからみんな、そっとしておいた。それに弔いも急いだからな。そうして動く理由がなけりゃ、心が潰されそうだった。みんなも、そうだったと思う。だから、気付くのが遅れた」


 一度言葉を切り、紫檀が深く息を吸ったのを肌で感じる。


「翌朝、首を括った桔梗を見付けた」


 頭と肩越しに、紫檀の苦しみを強く感じる。もう力が抑え切れないのだろう。それ程に、強い感情が紫檀を支配しているのがわかり、華火も彼を強く抱き締めた。


「桔梗は、戻って来た自分の髪と、無事に戻ると約束して残した水木の髪を、わざわざ縄に編み込んでいたんだ。もう決して離れないようにと見える程、それはきつく編まれていた」


 前に真空が私への御守りとするために髪を切ろうとした時、紫檀が真っ先に止めたのはこれが原因か。


 昨年の違和感。縁起が悪いとは言っていたが、慌てた紫檀を見たのは初めてだった気がする。だから強く印象に残っていた。

 しかし、紫檀の力が抜け、ゆっくりと離れていく。

 その行動に不安を覚えれば、しっかりと向き合える距離で見つめられた。


「それを見て、俺は思った。愛は純粋すぎると心狂わせるって。同時に、こんなに美しいものは他に存在しないとも、思ってしまった。そこまで想える相手に出逢える。それを、確かな形として遺した桔梗の最期の姿が、恐ろしくて、美しすぎて、忘れられない」


 それは、そうだろう。

 愛も悲しみも理想も、全てがその時で止まった瞬間を、忘れられるはずもない。

 それはこれからもだろう。


 しかし、それならば、けりを付けると言った紫檀の言葉の意味がわかりかねる。無理に整理する必要もなければ、これからだって誰の想いを受け入れる余裕すらなくたっていい。

 それが今の紫檀を作り上げているのなら、尚更だ。


「それなら、これからも想い続ければいい。それが、紫檀なのだから」


 素直にそう思えた。だから伝えたまで。

 しかし言葉が足りなかったのか、紫檀の眉間にしわが寄る。


「その言葉の意味、わかってんのか?」

「わかるも何も、そう思ったまでだ。そこまで大切な想いは貫いてほしい」

「あのな、それが辛くて華火は泣いたんじゃないのか?」

「いや、そうだったのだが、今の話を聞けたから、紫檀はそのままでいいと、より一層思えた」

「その結果、華火の事を見なくてもか?」


 あぁ、なるほど。

 こんな時にまで心配しているのか。


 紫檀の優しさに苦笑し、華火は彼を見つめ返す。


「いい。それは紫檀が決める事だ。私は紫檀が大切にしている想いを、大切にしたい」


 紫檀がここまで吐露してくれたからこそ、華火は彼を受け入れられた。このような事態になるとは思わなかったが、だからこそ今に感謝する。

 だが、紫檀は目を閉じてしまう。何かを考えているのだろう。

 その間に、華火はこれから先の懸念も伝えてしまおうと口を開く。


「でも、たまにこうして、迷惑を掛ける事も、あるかもしれない。その時はこうして受け入れるのではなく、無理だと突っぱねてくれてもいい」

「……ちょっと、黙っとけ」


 薄っすら目を開け口元を隠した紫檀が、睨むように見てくる。失言をしたに違いない。そう思えば、きゅっと心臓が痛んだ。

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