第78話 異変
ここ最近、犬神が三匹揃って訪問する事もなく、気が緩んでいた部分もあった。
だからこそ、舞い終えた余韻に浸る間もなく、華火は気を引き締める。
「舞が終わるまで待ってくれたのには感謝ねぇ」
「神事を邪魔する程、こちらも無作法ではない」
紫檀が歩き出せば、朝日は一礼し、眼鏡の位置を直して社の神域へ足を踏み入れる。後に続く茶々丸と小春は先程とは打って変わり、尾を垂らして申し訳なさそうな顔付きになる。
それらを確認し終えれば、ようやく華火の頭も動き出した。
「小春、それに御二方。本日は神事を見届けて下さり、ありがとうございます」
紫檀とのやり取りで理解した事実に、まずは礼を言う。小春と茶々丸がこれ以上、気に止む必要がないと伝えるために。
だが、朝日を含め、三匹が大きく目を見開いた。
「……あっ、そのっ! 華火ちゃん、凄く綺麗でした!」
「ありがとう。奉納する舞は今日が初めてだったんだ。だから小春にも見てもらえて嬉しい」
打ち解けた結果、お互いの呼び方や話し方も変化した。華火がいつものように話し出せば、小春も表情が緩んだ。
しかし、朝日がすぐに小春を背に隠した。
「うちの小春と仲良くしていただき、感謝申し上げる。しかしながら、本日は『見廻役』として訪問させていただいた」
朝日の言葉に、茶々丸の表情が引き締まる。
そして、肌を刺すような空気に包まれた。
「約束事を先送りにしていた身で申し訳ないが、今から金の天候を実際に操ってもらいたい。本日なら、他所の者に迷惑を掛ける心配もないだろう?」
朝日の言葉に、彼らを迎えに行った紫檀が肩をすくめる。
「あら。そんな事まで配慮してくれたのねぇ。他県ではあるけど同業だし、いつでもよかったのに。ま、それじゃあ遠慮なく、って言いたいところなんだけど、片付けがあるから茶でも飲んで待っててくれるかしら?」
見た目としては、双方、穏やかな表情なのだ。しかし先程の朝日の口調、そして紫檀の対応が所々、牽制し合っているのがわかる。
ついにか。
いつかは来る日が今日だった。それまでの事。けれど、突然すぎる事に変わりはない。
しかし、舞を舞い終えたばかりだからか、華火の心はそこまで乱れなかった。
「お手を煩わせるつもりはない。我々は外で待たせてもらう」
朝日が紫檀の提案を断れば、更に空気が重くなる。
けれどそんな中、白蛇が動いた。
『ならば、わしの世間話にでも付き
「……ご無礼をお許し下さい」
朝日がはっと息を呑む。すぐに頭を下げ、犬神全員がこの社の主へと挨拶を済ます。それを、白蛇は『気にする事などありませんぞ』と朗らかな笑い声を響かせる。それだけで、場の空気が日常のものへと近づいた。
さすがは白蛇様だ。
主としてもだが、このように変わらぬ態度であり続けられる事を尊敬している。それでなくとも、今からここが戦場になってしまうかもしれない。なのに、こちらはもちろん、犬神まで毒気を抜かれていた。
「……最近の妖は活気溢れる者が出てきました。特に商売事に熱心な狸や猫、それに大蛇、他の種族も同様に賑わいを見せています。心身を鍛える者もおりますね。特に天狗は山籠りして、以前よりも姿を見かけなくなりました」
『なるほど。今年は人間の世界が騒めきますが、妖にとっては飛躍の年になるかもしれませんな』
朝日が片膝をつき、白蛇と目線を合わせる。その間に黎明があちらへ向かえば、紫檀は入れ替わるように戻ってきた。
「ま、今日で良かったんじゃない?」
「何故?」
「今の華火の顔見たらそう思っただけよ。今なら大丈夫でしょ? 心が整っている内に、さっさとやっちゃうわよ」
小声で話し掛けてくる紫檀に首を傾げそうになるも、彼の言葉が心を包んでくれる。そのくすぐったさに身をよじりそうになるが、紫檀はすぐに華火の視界から消えた。
「さっ! 笛は簡単な手入れだけして大広間にでも置いて、片付けられる物は片付けちゃうわよ!」
皆もその声で動き出し、華火もまずは剣鈴と檜扇に手を伸ばす。
すると、朝日の低くなった声を拾った。
「……ここまでの話は良き事でしたが、どうも鬼だけは違う動きをみせている者がおりまして。まぁ、以前から上で暴れている者なのですが――』
まだ鬼は落ち着かないようだな。
しかし、そこまで気性が荒い鬼の相手をするは大変だろう。
持ち上げた剣鈴が鳴り、続きは聞き取れなかった。そして顔を上げた時、何かの輝きに一瞬、視界を奪われた。
どこから?
太陽の光が反射したのだろうが、それらしいものはない。ぐるりと見回してみたが、華火の行動に玄が怪訝な顔をして走り寄ってきた。それを申し訳なく思い、太陽が眩しすぎてと訳のわからない事を口走る。
だから、更に玄の眉間のしわが深まったのは言うまでもない。
***
ひと息つく間も無く、皆が華火を囲むように並ぶ。目の前には犬神達。小春と茶々丸からは何故か、追い詰められているような不安気な視線を感じる。
しかし、朝日からは確実に華火の全てを暴こうという意志を感じる程、無遠慮に見つめられ続けていた。
けれど、ここで怯むわけにはいかない。だから華火は、真っ直ぐ受け止め口を開いた。
「尋常じゃない光がこの社から現れたとの報告から、犬神が問題視している天候。それを本日はお見せします」
それだけを言い、印を結ぶ。
深く息を吸えば、華火は金の輝きをまとった。
「天候、浄天」
瞬間、視界が白に染まる。
その中で、誰も動く気配はない。
このまま、何事もなく過ぎてくれ。
呼吸に合わせるようにゆっくりと瞬きをする。これで納得してくれる可能性は低い。けれど、山吹が相手の出方次第でそれ相応の対応をすると言ってのけた事が気掛かりなのだ。
その不安を少しでも悟れないよう、華火は更に息を深く吸い込んだ。
もう、いいか?
自身の術は安定している。犬神達も何も言わない。ならばこれ以上、特別な天候を維持する必要はないはずだ。
「茶々丸、小春」
突然、朝日の淡々とした声がした。
「ちっ! これも仕事だ!」
「……あ、あああ、あたしっ! やっぱり――」
術を解除しようとする華火へ、茶々丸が走り出そうとするのが見える。小春はおろおろしながら、朝日へ声を掛けていた。
「界」
何が起きているのかと考える間もなく、山吹の怒りを含むような低い声が響く。
「あっ! ないす――、じゃない! や、山吹さん! 小さくするのはやめて下さい!」
「ごめんなさい! 許してもらえないかもしれませんが、ご慈悲を!!」
「……これはどういう事なのか?」
山吹の声で他の皆も一斉に動いていた。
特に踏み込んだのは黎明。朝日の首と腹にいつでも双剣を突き立てられる距離にいる。なのに、朝日は自身の得物に伸ばしかけた手を戻した。
「それはこちらが聞きたいです。天候を確認するだけではなかったのですか?」
そう問いかける山吹が茶々丸と小春へ目を向ける。すると、二匹を閉じ込める結界が更に小さくなった。
「これ以上は無理!」
「すみませんー!! もうしません!!!」
「山吹、もう充分だ!」
自身が金の光をまとっているので、山吹の力も強化されているのだろう。押し広げようとしている茶々丸と小春の抵抗も虚しく、びくともしない。
だからこそ、脅しはもういいだろうと華火は訴えたのに、山吹は珍しく聞き入れてくれなかった。
「私が理由を話す前に茶々丸と小春を解放していただきたい」
「その瞬間、朝日さん自身が動かれるのではないですか?」
「……私の何も触れていない手を見ればわかるはず。しかしながら、こうすれば納得していただけるだろうか」
先程からおかしな程、山吹の態度が変だ。確かに予想外の事ではあったが、普段の山吹なら結界を小さくしてまで相手を問い詰めたりしない。
華火が眉をひそめれば、朝日が刀を鞘ごと後方へ放る。その瞬間、黎明は一歩下がり、山吹は貼り付けたような笑みで結界を消した。
「ほんっとうにすんませんでした!!!」
「どうお詫びすればいいのかわかりませんが、ありがとうございます!!!」
「あっはっはっはっ!」
誰だっ!?
茶々丸と小春がすぐさま土下座すれば、知らない男の笑い声がこだました。
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