第73話 目的

「それでは、あたしの事からお話ししますね!」


 にっこりと愛らしい笑顔を浮かべた小春が、桜茶をひと口飲んで姿勢を正した。


「あたしは新入りですが、生まれは儀式からです。なので、生を終えた瞬間に犬神になりました」


 まさかまだそのような事が……。


 犬神の始まりは壮絶だ。人間は残酷な生き物でもある。自分の利益になるのなら、どのような物事でも実行してしまう盲目さを持っている。

 今、新しく犬神となった者は妖の世で生を受けた者達ばかりなはず。

 しかし小春のように、人間の望みを叶える存在として作られてしまった者もまだまだいるのだろうと、華火の中でやるせない気持ちが膨れ上がる。


 けれど、小春の表情は明るい。そして誇らしげだ。どうしてそこまで胸を張れるのだろうかと疑問が生まれ、気付けば華火は口を開いていた。


「辛くは、ないのですか?」

「全然! あたしは生まれながらに後ろ足が弱くて。それなのに、とても可愛がられました」


 懐かしむように右足へ触れる小春が「今はもう普通に歩けますよ」と、朗らかに笑いながら視線を皆へ戻した。


「その恩に応える事ができたのが何よりも嬉しいんです。けれど、今の世で犬神本来の力を使ってはいけないんです。あたしのご主人様がいろんな人間から利用されてしまうからって、離れる事になってしまって……。辛いのは、そばにいられない事、です」


 主の手で生を終わらせられたはずなのに、未だに愛しているのだな。


 犬神は受けた恩を決して忘れないそうだ。だからといって、恐ろしい体験もしたはずなのだ。

 それを一切感じさせない小春を、華火はどう受け止めていいのか決めかねる。

 すると、黎明の呑気な声が響いた。


「小春さーん! もしかしてですけど、すんごくお若いのではー?」

「お恥ずかしながら……。あの、犬でいたのは一歳までなので、そこから数えて……、えっと、ちょうど今年で十歳になります!」

「十歳!?」


 頬をぽりぽり掻く小春の言葉に、思わず声が出る。真空も同様だが、他の者も数名驚き顔で固まっている。


「す、すみません。若輩者が見廻役なんかやってて……」


 誰が見てもわかる程、小春の垂れ耳が伏せられる。そういった意味で驚いたわけではなく、その若さでお役目に就いている事へ反応したのだ。


「失礼な発言になっていたらすみません。寿命の違いがあるので僕達にはきちんと理解できていないのですが、犬神がお役目に就くのは早いとは聞いています。しかし小春さんは特に早いですよね?」


 確か、二十からだったような……。

 それでも私達からすると早すぎるのだが、小春さんは生まれが生まれだけに特別なのだろうか?


 山吹の質問に対し、華火も考え込む。けれどこれ以上失礼のないように、表情には出さない努力をする。

 すると、小春がふわりと微笑んだ。


「あたしが望んだんです。たとえ会えなくても、早くご主人様がいる下へ行きたいと。人間を直接守りたいと、無茶は承知で訴えました。その願いを聞き入れてもらい、あたしは見廻役になりました」


 小春の大きな黒目は常に潤んでいるが、今は天の川でも宿したように煌めいている。その光に惹き寄せられるも、小春が笑みを消した。


「なので、人間に対して悪影響のある妖は許せないんです。ご主人様が心を煩わせない世界を、あたしは望んでいます」


 華火はいつの間にか腕をさすっていた。寒気がしたのは気のせいではない。いつも愛らしい姿しか見せなかった小春から、障りを目の前にしたような奇妙な空気を感じたのだ。


「それが小春ちゃんの目標なのねぇ」

「はいっ!」


 しかし紫檀は気にも留めていないのか、普段通りに小春へ話し掛けている。すると、小春の雰囲気も共に戻っていた。


 今のは……。


 華火の思い違いだったのかもしれないが、織部も険しい顔をしているのが目に入る。しかし小春を目の前にして確認すべき事か迷う。

 だがその間に、彼女がいきなり頭を下げた。


「そういう訳なので、金の雨についても詳しく知りたいのが犬神の現状です。あれが切っ掛けで多くの妖が騒つきました。大体の者はしばらくして落ち着きましたが、鬼はどうも違うようで……」


 小春の声が震えた。

 華火の耳にその情報は入っていない。もしかしたら意図的に伏せられていたのかもしれない。そう思う程に、紫檀や山吹、そして黎明の表情に変化がなかった。

 

「このままだと人間の世界に直接……、って、あっ!! 何を言ってるんですかね、あたしは。今日は親睦会なのに! 今の言葉は聞かなかった事にして下さい!」


 苦しげな声になった瞬間、小春の顔が勢いよく上げられる。そして両手を彷徨わせながらあたふたと皆へ訴えてきた。


「なるほどな。それが親睦会の目的か」

「違います! こんな事を言うつもりではなくて――」

「うっそだぁ! 大事な大事なご主人様が心配だもんねぇ。だからこんなに頻繁に俺達のところに来てたんでしょ? 誰よりも早く情報が欲しいもんねぇ?」


 青鈍が冷めた目を向ければ、小春は泣きそうな顔になってしまった。しかし、木槿むくげが畳み掛けるように早口で捲し立てる。その表情は生き生きとしており、思わず華火は咎めようとした。

 けれどそれより早く、小春が反応した。


「違います!! 去年、こちらの社から何かよくわからない凄い光が生まれましたよね!? その時にこの周辺の妖が騒ついた様子が似て――」


 円卓の上へ小春が手を叩きつけ、桜茶が音を立てる。そして息荒く話し続けたかと思えばかっと目を見開き、固まった。


「なるほど。そういった理由があってのものだったのですね」


 この場にそぐわない山吹の陽だまりのような笑顔と声色だけが、大広間に響いた。


 ***


 朝の九時。人間が利用する駅がよく見える詰所の外は、穏やかな光景が広がる。

 小春の帰りを待つ間に、朝日は上への報告書をまとめていた。あとは彼女が持ち帰ってきた新たな情報を書き加える事で、今回の分は終わりだ。

 だからこそ気が緩み、先程からうっとおしく聞こえ続けていた真正面に座る茶々丸のため息を、朝日の耳がしっかりと拾う。


「何だ? 言いたい事があるようだが」

「その、やっぱり、こういうのは良くないんじゃ……」

「良くない、とは?」


 他の者は見回りに出払っている。だからこそ言葉にしたのだろうが、茶々丸の目が泳ぐ。


 自分達は組織の一部にすぎない。だからこそ、私情を挟むべきではないと言い聞かせてきた。

 そういった考えを持つ朝日だからこそ、茶々丸や小春のような浮ついた思想の持ち主を、宛てがわれている節がある。

 彼らの考えを否定はしないが、それをお役目に持ち込む事は許されない。


「小春は、仲間なんすよ。だから餌みたいな使い方は、嫌っす」


 立ち上がった茶々丸が言い切った。赤茶の巻き尾がしっかり持ち上がったところを見ると、腹を括ったようだ。


「そうか。けれどもう実行した後だ。後悔するのなら先に動け」


 決断を誤る事は、見廻役にとって痛手である。だからこそ後悔などという浅はかな考えを捨てさせるように、朝日は軽く睨みつける。

 それに臆する事なく、茶々丸はまたも口を開いた。


「今からでも遅くないって、思うんすよ。だから言いました」

「それでも、やはり小春が適任だ。我々が行ったとて、狐の懐には潜り込めないだろう」

「だからって、小春の生まれまで伝えさせる事はなかったんじゃ……」

「そこに意味がある。相手は統率者と送り狐。何より、白蛇殿を生かす事を選択した者の集まりだ。それが何を意味するのかは、言わなくてもわかるだろう?」


 命そのものを見る者達なら、小春の生い立ちを知って情にほだされる者も現れるだろう。


 眼鏡を押し上げながら茶々丸を見やれば、やはり納得のいかない顔を向けてくる。


「……でも、そんな事しなくたって、こんなに付きまとえばいつか尻尾を掴めるって思うんすよ。それにほら、小春だけだとうっかり何か喋るかもしれないし……。自分で言っといてあれっすが、そっちの方が心配なんすけど」


 先程まで凛々しい表情をしていた茶々丸だったが、今は情けなく立ち耳を伏せ訴える眼差しを向けてくる。立派な男犬がそんな顔をしても気味が悪いだけだが、どうにも茶々丸は様になる。結局自分も仲間には弱いのだと自覚するも、朝日は咳払いをして誤魔化す。


「それについては問題ない。知られてもいい情報しか小春は持ち得ていないからな」


 目線で座れと合図すれば、茶々丸は渋々従った。それを見届け、朝日が他の業務へ移ろうとすれば、恨めしい声が聞こえた。


「やっぱ俺、見廻役向いてないんすね」


 目を向ければ、茶々丸は突っ伏してこちらを見ようともしない。これは少しばかり面倒だと呆れるが、朝日は諭すように言い聞かせた。


「向いているかどうかは我々が決める事ではない。そして今回の命令は特殊だ。そう自分を責めるんじゃない。銀次様が納得すれば、また元の日常へ戻れるだろう」


 銀次様は騒動が起きないよう動かれているが、力を使用する者の気質を見定めたいとも言っていた。

 もしかしたら、あの光が切っ掛けで人間の世も騒がしくなったかもしれないと疑われている。けれど、どのように判別するのかは聞かされていない。

 だが、それが事実であったとしたら、犬神と狐の関係がどうなるのかは、わからないが。


 ゆるゆると顔を上げた茶々丸に軽く微笑むが、朝日もまた漠然とした不安は抱えていた。

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