日本が侵略を認めるための第二次大戦メモ帳

木島別弥(旧:へげぞぞ)

第1話

 わたしは、第二次大戦について自分の知識があまりにもなかったことに驚き、ひょっとして、他の人たちも、第二次大戦についてあまり知らないのではないかと心配になり、これを書く。

 わたしは、若い頃、マルクス主義とポストモダンと第二次大戦は、いつ終わるとも知れない論争をみんながえんえんと続けていたので、その三つについて調べるのは徒労だろうと後まわしにした。それから二十五年がたち、読みたかった本はだいたい読み終えてしまったので(もちろん、さらに読もうと思えば、読みたい本はいくでもあるが)、ようやく、マルクス主義とポストモダンと第二次大戦について調べてみた。

 わたしは、日本国家と連携をとっていない独学者であるので、これを公開するのに、わたしの勘ちがいや思慮のなさがあるかもしれないと、とても心配になるのだが、第二次大戦はわたしにはどう考えても、日本による侵略であり、日本は、朝鮮にこそ謝罪をしたものの、いまだ、中国と東南アジアに侵略の歴史を話すことを疑問視していると感じられる。第二次大戦の戦争終結からすでに七十六年がたった。わたしが第二次大戦についてのまとめを公開することは思慮のない行為である可能性があり、これをいつ削除するかわからないが、日本の独学者によるまとめとして、公開しようと思う。


  1、第二次大戦を理解するのに注意すべき視点


1874年:西郷従道が日本政府の許可なしに勝手に軍を起こし、台湾を征服。

1907:ロシアで「シオンの議定書」が作られる。ユダヤ民族が世界を支配しようという計画。これは実在したため、ヒトラーのユダヤ虐殺や、日本の最終戦争論も、評価が難しくなる。

1910:日韓併合。

1911:中国で辛亥革命が起きる。

1912:中国は、孫文政権を倒し、袁世凱が中華民国皇帝に即位した。


  2、満州事変


1931:満州事変が起こる。

 首謀者は関東軍参謀・石原莞爾。短期決戦を良しとして、一年で満州を占領した。石原莞爾は技術者重視だった。この時、毛沢東は日本との戦いに備え、中国軍を指揮し始めた。毛沢東は、中国と日本の戦いを人類の普遍的な矛盾が原因だととらえていた。

 石原莞爾は、仏教については日蓮宗だった。日本の特務機関は満州事変に協力した。戦争を理解するのに、仏教と特務機関は必要な視点である。

1932:満州建国。

 愛新覚羅溥儀を君主として、日本の傀儡国家として建国された。五族協和、王道楽土を標語に掲げた。覇道より王道を目指したのは石原莞爾の思想のとおりだ。


  3、日中戦争


1937:7月、盧溝橋事件。

 日本軍が北京近郊で軍事行動。北京占領。日本政府は、五大臣会議で戦線の拡大を否定したが、日本の陸軍は従わなかった。政治家が戦争を止めても、陸軍は大臣のいうことをごまかして聞かなかった。

 天皇ヒロヒトを始めとする日本支配者層は、日本と中国間の宮中祭祀を満州事変以降もおそらく継続していた。そのため、日本と中国での友好的な交流も、この戦争中、ずっと継続していた。

 日本軍は、北京から南進した。

 毛沢東が長征を開始。

1937:日本が中国の十一個の都市を空襲。

1937:12月、南京占領。

 半年で日本陸軍は北京から南京まで移動して侵略した。

1938:日本で総動員法が成立する。国民皆兵は石原莞爾が良いとしていたもの。

1939:5月~9月、ノモンハン事件。日本軍とソ連・モンゴルの戦闘があった。

1939:9月1日、ドイツがポーランド侵攻。イギリスがドイツと開戦。

1940:9月27日、日独伊三国同盟。

 この時、ヒトラーは目的であるオーストリアからの独立を成し遂げていた(1938年3月)。日独伊三国同盟に反対した日本の政治家は、反戦派の米内光政、山本五十六、伊藤成美。

1940:ゼロ戦が完成。

 日本のゼロ戦は一機で十機を撃墜するくらいに勝つ。日本はゼロ戦の強さに慢心した。


  4、大東亜開戦


1941:7月28日、日本は南部ベトナム(フランス領インドシナ)へ進軍。日本は平和駐留であると主張した。

1941:8月、日本の総力戦研究所は、日米開戦した場合、「日本必敗」と報告する。

 それでも開戦しようとした政府首脳と軍部を殺してでも止めるべきだったか。そのことを多くの日本の政治家や軍人は考えただろう。

1941:12月8日、日本軍がマレー半島上陸(真珠湾攻撃と同時)。

 日本軍はマレーシアに侵略。

(タイは日本と同盟して枢軸国側で参戦)。

 日本軍はマレー半島の反日的な人物、資産家、学歴のある者を射殺した。その人数は五万人に及ぶ。

1941:12月8日、真珠湾攻撃。日米開戦。

1941:12月8日、開戦の詔勅でアメリカとイギリスに宣戦布告した。12月8日は釈迦牟尼が悟りを開いた日だった。

1941:12月8日、日本軍がフィリピンへ上陸。

1942:1月18日、日本軍がビルマ侵攻。その後の五カ月で占領。

1942:2月~3月、日本軍はオランダ領インドネシアへ侵攻。占領した。

1942:2月、日本軍がイギリス領シンガポールを攻め落とした時、イギリスから早期和平の打診があったが日本は断った。イギリス軍八万人が捕虜となった。

1942:3月、日本の艦隊がインド洋へ進出。

1942:5月、日本がフィリピン占領。

 日本はフィリピンの七万六千人を捕虜とし、うち一万七千人が死んだ。フィリピン人は三十万人が決起して日本兵と戦った。


  5、大本営発表


1942:6月、ミッドウェー海戦。

 ゼロ戦がアメリカ軍戦闘機グラマン(ワイルドキャット)に負けるようになる。有名な大本営発表は、この敗戦を国民にごまかして報道したもの。

 外交官・吉田茂は、ミッドウェー海戦の敗北を知り、和平をするように東条首相に申し出たがダメだった。

1943:フィリピンに親日政権ができる。フィリピン独立は1946年まで遅れる。

1943:8月、ガダルカナル島の戦い。太平洋南洋で日本が米英に敗戦。

1944:3月、インパール作戦。

 日本軍十万人がビルマからインドへ侵略を目指したが、敗北。補給もなく、三万人死亡、四万五千人が戦傷。

1944:6月からアメリカが日本本土へ爆撃開始。日本人37万8千人が死んだ。

1945:2月~3月、フィリピンのマニラで日米の激しい戦い。マニラ市民十万人死亡。

1945:3月、ビルマ一斉蜂起。ビルマ人は日本と戦った。

1945:3月、硫黄島玉砕。日本軍の二万人が死亡。

1945:3月23日~6月23日、沖縄決戦。

 日本軍は8万人。アメリカ軍は上陸部隊18万3千人、四百三十隻、航空機六百機。

 有名な神風特攻隊はこの時に戦闘機で敵艦に体当たりを狙った。

 戦艦大和が沈没。

 6月23日、沖縄部隊司令官牛島満自決。

 8月6日、広島に核兵器が投下される。

 8月9日、長崎に核兵器が投下される。


  6、終戦


1945:8月9日、ソ連が日本へ進軍。

 8月15日、日本降伏。

 9月2日、終戦条約に調印。第二次大戦が終わる。

 戦後の加藤典洋は、「敗戦後論」で、日本の国体の敗北であったと評した。

 第二次大戦は勝者のいない戦争だったか。

 日本は自国の国体を護持することを降伏の条件としたが、それなら、日本が侵略したそれぞれの国に隠れた国体があって、それをその国民が護持しようとしていたのならどうするのか。日本は侵略した国の国体を守ったのか。他国へ侵略して、他国の国体をないがしろにして、日本の国体だけ守れというのが通用するのか。

 わたしは、朝鮮や中国や東南アジアの国体なんか、まったく知らない。

 満州事変から終戦までの戦争で、日本兵は230万人が戦死。日本の民間人80万人が死亡。

 世界征服を企んだ悪の政府・大日本帝国はこうして滅んだ。

 8月15日になっても、陸軍の戦争継続派が霞が関を襲撃して、戦争続行しようと企てるものたちはあった。終戦を実行するには、好戦派を圧倒しなければならず、大変だった。

1945:8月17日、ベトミン総蜂起。

 9月、ベトナムが日本駐留軍から独立。


参考文献。

西田幾多郎「善の研究」

毛沢東「実践論・矛盾論」

石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」

ヒットラー「我が闘争」

堀越二郎「零戦 その誕生と栄光の記録」

河上徹太郎他「近代の超克」

宇野弘藏「恐慌論」

島田覚夫「私は魔境に生きた」

鶴見俊輔「戦時期日本の精神史」

加藤典洋「敗戦後論」

ヤスパース「われわれの戦争責任について」

ティロール「良き社会のための経済学」

バオ・ニン「戦争の悲しみ」

将口泰浩「キスカ撤退の指揮官」

将口泰浩「魂還り魂還り皇国護らん」

実松譲「米内光政正伝」

ウィキペディア。

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