第18話(時の魔女⑤)11歳

「何年たっても変わらないな、この屋敷は」

 アルマが内庭を見回し、ポツリとつぶやいた。その胸のうちは、わたしにはわからない。


 時間移動というのは、時間や空間そのものを移動する魔法だ。アルマはそれを「別の時間軸に入る」と表現した。

 わたしには「別の時間軸」という言葉が理解できない。


 ただ、これだけは分かる。別の時間軸に入ると、自分が二人存在する場合がある。さっきのわたしがそうだった。自分自身に遭遇するのは、かなりの衝撃だ。


「さて、過去に戻る魔法はもうひとつある」


 アルマの説明は続く。

 もうひとつの魔法は、時間軸は移動しない。「同じ時間軸で後戻りをする魔法」だという。


 アルマは近くに生えていたシロツメクサを摘み取った。小さな花弁が愛らしい。それを手のひらにのせて、わたしに掲げてみせる。


 遠くで教会の鐘の音が聞こえてきた。

 アルマは花弁を細かく千切ると、内庭にパッと投げた。白い花弁が風に舞う。


 それからアルマがわたしの手を取った。

「さぁ、アイカ。よく見ていろよ」


 アルマの手のひらに、シロツメクサがのっている。さっき千切って投げたはずの花弁が、きれいなまま残っていた。


「これが、『巻き戻し』だ」


 わたしは何が起きたかわからない。

 シロツメクサをじっと見ていると、教会の鐘の音が聞こえてきた。


「あ」

「わかったか。時間を戻したのだ。五秒間だけな」


「どうやったら、こんなことができるの?」

「時の流れのなかで、そのまま後ろに数歩下がるイメージだな。時間移動とは違って、時間軸は変わらない」


「すごいね」

「ああ」

「本当に、すごい」

「ふむ、アイカ、いま何を考えている?」


「うん。さっきの時間移動も、いまの巻き戻しも、すごい魔法だと思う。でも、なぜ半年前には戻れないのかなって」

「うむ、それを説明しようと思っていた」


 わたしは疑問に思っていたのだ。

 後ろに下がればいいのなら、「じゃあ、ずっと下がり続けたら、ずっと過去にまでさかのぼれるのではないか」と。


「まぁ、当然そう思うだろうな」

 アルマはうなずいた。

「ひとまず時の回廊に戻ろう。この世界に長いあいだ居るのは、わたしにはつらい。誰かに見られても面倒だ」


 次の瞬間、わたしたちはあの白い部屋に戻っていた。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 わたしたちは椅子に向き合って腰掛ける。


 少し解説を加えると、さっきからアルマは時間魔法の効果をわたしと共有している。こんな風に魔法を他人と共有するのは、実はかなりの高等技術だ。

 当時のわたしは分かっていないが。アルマが思念体とはいえ圧倒的な能力者で、わたしと波長が合うから出来るのだ。


 アルマが言う。

「時間というのは、不思議なものだ。わたしは時間魔法と時間の謎に取り憑かれ、生涯かけて追究してきた」

 幼い顔つきと老成した口調のミスマッチには違和感があるが、だんだんそれも慣れてきた。


「ひいおばあさま。あなたが生きていたとき、時間魔法を使えるのは一人だけだったって言ってたでしょう」

「そうだ。わたしだけだった」

「なぜ、そう言い切れるの?」


「一言でいうと、自分以外の存在を感じなかったからだ。この時の流れの中に」

「ふうん」

「だから、お前が入ってきたときは、すぐにわかったぞ」

「そうなんだ」


「それに、わたし以外の人間が時の流れに干渉した形跡が、少なくとも百年以上はなかった」

「ねぇ、さっきから言っている『時の流れ』って、見ることはできるの?」

「ふむ」

 アルマが立ち上がり、さらりと言う。

「アイカ、では、見てみるか。時の流れを」


 アルマはわたしと手をつなぐと、時の回廊から別の場所に飛んだ。


 わたしは暗闇の中で地平線を見つめている。

 

 地平線の彼方がうっすらと明るい。


「ここが時間のはざまだ」

「時間のはざま?」

「そう。時間と空間のまじわる道のようなものだな。気づいていないと思うが、さっきから我々はこの道を通って別の時間軸や空間に移動していたのだ」

「ふうん」

「時の回廊もこのはざまに存在している」


「なんだか、よくわからないけど。何もない広い空間だね」

「ふふふ。何もない、か」

「え」

「確かに、何もないように感じる。それは我々が未来の方を向いているから、見えていないだけだ」


「未来?」

「そうだ。明るい方は未来だ」

「じゃあ、『現在』はどこにあるの?」

「足元を見てみろ」

「え、暗いだけで何もないけど」

「よく見ろ。決して暗いだけじゃないはずだ」


 わたしは足元に目を凝らす。


 あれ。


 暗闇と思っていたものが、無数の黒点であることに気づく。


 ■■■■■


 わたしは、その黒点を見極めようと、凝視する。


 ■■■■■■■■■■


 そして、わたしはようやく気づいた。


 ■■、■■、■■、■■、■■、■■


 黒点ではない。ひとつひとつに、人間の感情のようなものを感じる。


 アルマが言う。

「足元に在るのは、人間の営みだ。いまを生きる人々の、人生そのものと言っていい。ここには無数の時間とともに、無数の人生が集まっているんだ」


 認識した途端、それらの感情は奔流となってわたしに迫ってきた。


 悲嘆、憂慮、鬱憤、愉楽、激怒、賛嘆、憤慨、愁傷、懸念、怒気、義憤、立腹、辛辣、感服、心労、称賛、遺恨、崇拝、悲哀、歓喜、憤怒、悲憤、賛美、暗澹、渇望、憤懣、憧憬、怠惰、激昂、哀惜、歓楽、嘆息、驚嘆、怨嗟、苦悶、怨恨、憤怒——。


 アルマがわたしの背中を強く叩いた。

「アイカ、心を奪われるなよ」


 わたしはアルマの声で自分を取り戻す。

 一瞬、人々の感情に巻き込まれ、心が取り込まれていた。わたしはぜいぜいと喘ぎながら、あたりを見回してぞっとする。


 ここは何もない空間ではなかった。

 その逆だ。何もかもがある空間なのだ。あらゆるものが無限に集まっているので、ひとつひとつのものを区別して認識できなかっただけだ。


「さぁ、アイカ、今度は後ろを振り返ってみろ」


 わたしはおそるおそる背後を振り返る。


 そこにあったのは、黒点どころではない。どろどろとした重苦しい何かが視界を占め、はるか向こうまで埋め尽くされている。足元よりも、さらに大量に、さらに濃密に、広がっていた。


「それが、過去だ。過ぎ去った時間は重い。そして人々の感情が複雑に絡み合っている。過去に戻るには、その中を掻き分けて進まなければならない」


 わたしはさっきの黒点の奔流を思い返し、ごくりと唾を飲み込む。


「アイカ、半年間も戻るためには、遥か向こうまで進まなければならない。お前にそれができるか? わたしにも無理だ。とても正気は保てない」


 ちょっと数歩後ろに下がるくらいならできるだろう。あるいは少しだけなら我慢して進めるかもしれない。だが、その状態でどこまで耐えられるのか。


 わたしは今度こそわかった。「理屈では可能だが、できない」と言っていたアルマの言葉の意味を。そして、過ぎてしまった過去の重みを。


 時の回廊に戻ってきたわたしは疲弊していた。過去をわずかに振り返って眺めただけで、神経が激しくすり減っていたのだ。


 椅子に座り込んだわたしの頭を、アルマが撫でた。


 「アイカ、お前が望むなら、わたしが魔法を教えてやろう。お前にはその力がある」


 答えは出ている。

 わたしはもう魔法から逃げるつもりはなかった。

 魔法を学んだ先に何があるのか、それはまだわからないけど。これが自分の道だと思った。


「ひいおばあさま、わたしに魔法を教えてください」

「よし。じゃあ、まずはその呼び方をやめろ。何だか一気に老け込んだ気になる」


「ふふ、だって、あなたは、わたしのひいおばあさまなのに」

師匠マスターと呼ぶがいい。魔法使いの弟子は、先生のことをそう呼ぶものだ」

 アルマはそう言って笑みを浮かべた。












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