第三章 南方より来たる嵐、裏切り者を叩いて潰す
第57話 北の大地、湖畔の水蛇
大地を駆ける馬蹄と無数の
怒号と咆哮が重なり合う。
鉄と鉄が打ち合う音がどこかで響いては、少し後に断末魔の悲鳴が上がる。
沢山の人がいた。
それぞれが目を血走らせて、剣や槍を手にしている。幾人かは立派な鋼鉄の甲冑を身に纏い、馬上から指揮をとっている。
それは、どこにでもある戦場だった。
「ボヤボヤするな! 水術師達はどうした、奴らを前に出せ!」
攻略する側の軍隊の真ん中で、男が叫ぶ。
北大陸の中でも更に北部、湖に沿って建設された美しい城を巡って、争いは勃発した。
人の群れが別の群れにぶつかり、その度に血飛沫と悲鳴が舞う。
魔石による術式が発達したことにより、術士達の援護を受けた戦争が基本となったが、それでも槍を握る歩兵や騎兵は無くならない。
魔石に限りがある以上、術式による超常の技は、一つの有効な戦術兵器には成り得ても、戦争の在り方を変えるほどの戦略兵器には至っていない。
もちろん、単独で戦局に影響しうる規模の魔石も無いではないが。
その点を
今回の戦いの当事者達、特に水辺の城に攻め込んだ大軍団は、ひとえにきっと、運が悪かったのだ。
「馬鹿な、これほどの術使いが城を守っているなど聞いていないぞ。ソロンめ。一度降参しておきながら、抜け抜けと次の戦支度をしていたな!」
それはきっと、降参した敵国をなおも攻め立てる、彼らエミリア教国の兵が言うべき中傷ではないのかもしれないが。
目の前の光景は確かに、迂闊に攻め込んだ侵略者に同情しうる状況だった。
巨大な水柱が湖から昇り立つ。
一本、二本とそれは数を増やし続ける。
城を防備する陣営は、開戦後すぐに背後へ撤退していったが、それこそが罠だった。
深追いした先鋒は、既に湖に呑まれていた。今度は本隊へ向けて、初撃以上の数に登る水柱が、着々と形成されていく。
「出鱈目なマネを! 早く水術師達を回せ、大波を鎮めさせろ! 全員呑み込まれるぞ!」
湖そばに建つソロンの城、それを陥落させることが、エミリア教国軍の目標だった。
この湖畔の城が無くなれば、付近の戦場やソロン側拠点は継戦機能を失う。戦線の押し上げには、避けては通れぬ場所だ。
攻めるに難い
攻撃側の指揮官はそれからも常々、水辺の城を虎視眈々と狙い定めていた。
ソロンとの関係を踏まえるに、いつ再戦となってもおかしくない。であれば、奪える時に奪うべき。そう考えていた。
例え休戦協定が結ばれた今であろうとも、彼我の力関係であれば、どうとでも無理を通せる。
抗議や非難は浴びるだろうが、それは参謀本部の仕事だ。そして恐らくは、その程度のことだけで、戦後処理における問題は片付く。
そんな甘い予測は、とっくの昔に御破算になった。現状は、最悪なものに変わろうとしている。
大した戦力が残っていない難所を攻める、それだけの話だったのに。
あれほどの規模の水術であれば、人数も準備も大掛かりになるだろうに、あの巨大水柱は、何の前触れもなく現れた。
「化け物め、いったい何者だ」
幾重にも上がった水柱の中、湖の中央には一つの人影があった。煌々と輝く青い光は、己が術主であることを、微塵も隠そうとしていない。
術者に
そして今、治水に向かった水術師達の部隊が、湖面から粘体のように伸びた水に絡め取られ、湖に引き込まれていく。
犠牲になった者達を庇うのであれば、向かった部隊は元よりサポート要員で、直接戦闘は不得手ではあった。そんな事情はあるのだが。
大規模水術の術主は、他の術師からの干渉など、ものともしないようだ。
そして都合の悪いことに、水術師達の全滅は、攻略部隊の打てる手がゼロになったことを表す。
側近達が指揮官に対し退避を促すが、退却の号令をあげるべき彼は、槍を強く握り締めるだけで、その場を動こうとしない。
かの城を手に入れんがため、指揮官の彼は、今回の
あの城があれば、次なる戦いの
とっくの昔に白旗を上げていたソロン領に、奇襲で攻め入った挙句がこの有様では、もはや身内で笑われるだけでは済まない。
築き上げた自分のキャリアが、
「くそ、我が槍もこの状況にあっては役に立たん。
おのれ、おのれ!」
やがて水柱が二桁に到達した頃だろうか。
水柱が降り注ぐ先にいた教国の兵士達は、命の危険を感じて逃げ惑うが、すぐにそんなことをする必要は無くなった。
それほどの勢いで、水流は何もかもを押し流していく。
「こんな所で映えある神殿騎士の一柱が、
軍の奥にいた指揮官と側近達も、大質量の水流を免れられず、一呑みにされていく。指揮官である神殿騎士は怒りに身を震わせながら、馬ごと波間に消えていった。
湖から水鉄砲のように溢れた水は、更に広がりながら敵陣奥を目指し、全てを押し流す。
一方で湖の中央の水面には、変わらず一人の水使いが立っていた。
鈍重そうな甲冑で全身を覆った術主には、湖の中央にありながら、水滴の一つも浴びていない。
「オオオォ、オオオオオオオオォ!」
裂帛の咆哮を叫びながら、その全身甲冑姿の騎士は、水術の行使を表す青色の輝きを、身に纏っていた。
目の前から人の姿が消え去った後も、その騎士は雄叫びを上げ続けた。
*
「
城壁の上、幼い少女が立っている。
その場所も戦場と呼ぶには十分のはずなのに、何故か白衣を身に纏い、武器も防具も持ち合わせていない。
輝く翡翠の大きな瞳は、目の前で行われる戦争をつぶさに観察していた。
結果に満足しているのか、オレンジブラウンの髪を揺らして、感慨深そうにうんうんと頷いている。
近くには城兵と思われる軍服姿の者たちがいたが、揃いも揃って、年端もいかない少女に
「とはいえ
「城から追撃隊を編成しますか、閣下?」
「
先に破ったのは、教国側なんでちゅけどね、と。舌足らずに少女が呟く。
とはいえ、それが今のエミリア教国と旧ソロン帝国の関係性だ。彼の国と本腰を入れて構えるのは、まだ早い。
無茶な物言いをされても宥めすかし、ある程度聞き入れつつ、現状を維持する必要がある。
「彼の武功はこれで十分でちょう。一度は
英雄には、それに足る肩書きが必要になる。
かの高位水術師を、ただの客将で置いておくのは勿体無いと、小さなレディは常々考えていた。今回が、その丁度良い機会になってくれればと思う。
「順調にいけば第五、いえ第六に着任でちょうか。そんなちゅもりじゃなかったと、彼には不満を言われるでちょうけど」
この後の算段を立てつつ、幼なげな少女が不相応な笑い方を見せる。
可愛げがあるはずの仕草なのだが、周囲の城兵達は誰一人として笑みを浮かべることはなかった。
「おう、ここにおったか
そんな中で、城壁内の通路から姿を現した大柄な男が、気安く声をかける。
敵国であるはずの、エミリア教の法衣を着た聖職者らしき闖入者に、その場に緊張が走る。
立派に蓄えた赤土色の
刈り込まれた髪には、四十過ぎの中年らしく白髪が少なからず混じっているが、法衣越しからでも分かる筋骨隆々の肉体が老いを感じさせない。
幼い少女が軽く片手を上げて、ざわつく周囲に対し落ち着かせるように合図すると、城兵達は警戒しつつも再び立ち膝をついて待機の体勢に入った。
「しょの格好でこの辺を出歩くなと、
「つれないことを言うな。同じ
その言葉で、城兵達の緊張が幾分和らぐ。
「一応、講和の仲立ちをするよう、言われていたのだが。これ、拙僧もう要らんな」
「何を言いまちゅか。むしろここからが貴方の出番でちゅ。
その尻拭いをしろと、幼女は明け透けに、髭面の司祭に言い放つ。そんなやり取りが許される程度には、二人は既知の間柄だった。
「マジであるか。十槍褒章の権力ゴリ押しして進軍した挙句、ソッコー死んだとか。拙僧テン下げ」
「やっぱり貴方。侵攻のこと知ってたのに、わじゃと黙ってまちたね」
ふわふわなオレンジブラウンの髪を風に靡かせて、少女が目を細めて法衣の中年を睨む。
余計なことを言ったと、司祭は頬を指で掻いて、誤魔化しを捻り出そうとする。
「いや、拙僧も難しい立場なんだぞう。どっちの陣営にも良い顔しつつ、最善の道を探る、大変な役目なんだぞう」
「分かってまちゅから、言い訳は結構でちゅ。もし貴方まで本腰入れて侵略に賛同していたなら、わたちと彼の援軍自体を妨害したでちょうし」
だからこの事態は、実はこの司祭にとっては予定調和ではあるのだ。思惑よりも早くカタがついたかもしれないが、それとて彼の障害になり得るなら、事前に手は打っていただろう。
そのくらいの裁量は、彼はどちらの国からも預けられている。
もっともそれは、彼にとっては悩みの種であるかもしれないが。
事実として、この白髪混じりの中年司祭は、現在進行形で戦地である湖畔を、重たそうな瞼で俯瞰している。
「しっかし神殿騎士の連中は、本当に迷惑しかかけないものである。拙僧、休み欲しいんだが」
「他人事のように言ってる場合でちゅか。貴方も、その神殿騎士の一角でちょうに」
「名ばかりの肩書きが増えても、良いことなんて何にも無いがなあ」
頭を掻きながら、やはり他人事のように巨漢の司祭が言い放つ。
実際には、今後この司祭が関わらなければならない会議は、十や二十では効かないだろうが。ともあれ外交官、それも戦時における二国間の調整役とは、得てしてそういうものだ。
彼程度に気を抜いている方が、精神的には丁度良いのかもしれない。
「
「相分かった。第三近衛殿に置かれては、拙僧が話を付けるまで、軽々な真似は控えるように。お前にまで好き勝手動かれたら、用意していた言い訳では足らんからな」
そこで、
第四近衛と呼ばれた司祭は、大股で城壁を去っていく。
第三近衛と呼ばれた少女は戦場を俯瞰しつつ、横目でそれを見送る。
同じ職位に立つ二人だが、それは表向きだけの話で、実情は大きく異なる。何かが間違えば、殺し合わねばならない間柄だ。
それでも気を抜けない会話になるのは、司祭の人柄によるものだが。
それぞれが別行動をとりつつも、対照的な二人の近衛達は、同じく戦後の情勢について思いを馳せていた。
そして第三近衛と呼ばれた幼い少女は、とあるものを見つける。
司祭が出ていったのとは別の出入り口から、いつの間にか、別の人影が現れていた。
背の高いスレンダーな女性で、遠目にも眉目秀麗と分かる。
将校が詰めるこちら側に注意を向けておらず、視線は外の戦場に向けられている。
特に敵意も感じないところから、迷い出た避難者だろうかと、第三近衛は当たりをつけた。
開戦前の時点で、城下町に住む住民を城に誘導させている。
第三近衛が立つ城壁の上は、基本出入り禁止だったが、今は緊急時だ。防衛に人手を取られている状況では、屋上への通路を全て封鎖している人員的余裕は無かった。
見たところ旅装のようだから、巻き込まれた旅人が単純に迷ったのかもしれない。
平時は湖畔に浮かぶ美しい城だけあって、観光収入には事欠かない街だ。
「避難民でちゅかね。しょれにちては隙がありまちぇんが。はてさて」
場の総司令官たる第三近衛が、短い歩幅でとことこと歩き出す。供回りが付いてくるのを尻目に、真っ直ぐ旅の女性に近付いた。
「ここは危ないでちゅよ」
「え? あなたは?」
供を連れた見知らぬ幼女に声を掛けられ、女性が少し
「
流れるように、口からでまかせを言う。
とはいえ、事実を言えば更に
「避難されてきた方、それも旅の人とお見受けしまちた。ここは立ち入り禁止なんでちゅ。それにいつ攻撃を受けるかも分かりまちぇん。避難場所への帰り道が分からないなら、案内を
「ああ、失礼しました。招かれてこの町に来たのですが、騒ぎに巻き込まれまして。同行した者達を探していたんです」
迷い人の女性が、慇懃に頭を下げる。
落ち着いた物腰と所作といい、どこかの令嬢か、その側仕えといったところか。やけに軽装なことも、仲間がいるのであれば頷ける。
「大荷物を持った若い集団なのですが、ご存知ありませんか? 楽器を持ち歩いているので、見れば分かると思うのですが」
「報せは届いていまちぇんね。でも避難指示は早めに出したはじゅなので、別の場所に誘導されたかもしれまちぇん。状況が落ち着いたら、探してみてくだちゃい」
念のため、機密に引っかからないレベルで、他の避難区域を口頭で伝える。
女性は慌てることなく、伝えられた場所を
「ありがとうございます。助かりました」
「礼には及びまちぇん。しかし楽器とは珍しいでちゅね」
「ええ。普段は歌で路銀を稼ぐ生業をしています。伴奏に、リュートやハープ、フルートを使うことがあるので」
大陸中で近年、聖歌や恋愛歌、騎士をモチーフにしたものなど、歌が流行っている。
宗教観の強いものも多く、教国も進んで取り入れていることもあり、それに合わせて楽器も普及し、多くの吟遊詩人が現れていた。
多くが街中で演奏されるが、名のある歌い手や演奏家は、宮廷や聖堂に招かれる場合もある。
目の前にいる女性も、その一員らしい。
「そう言えば新進気鋭の楽士を呼んだと、領主が言っていまちたね」
「私達のことかもしれませんね。戦地の近くにも、慰安目的で訪れたりしますし」
やけに落ち着いているのは、それが理由だろうかと第三近衛は推察した。
物憂げにしながらも、恐怖や焦燥といった感情が見られない。旅慣れしているというだけではなさそうだった。
「わざわざ戦場を巡っているのでちか?」
「実入りが良いのもそうですが、作詞や作曲への刺激があるので。とはいえやっぱり、こういった光景は何度見ても、滅入ります」
戦場に目を向けると、南方より来た客将が城より高い水柱を巻き上げて、敵陣を押し流している。
敵兵が為す術なく呑み込まれては、水流の中に姿を消していく。
戦いの光景に慣れた人間でも、これは中々にショッキングな映像だった。
だが旅の女性が受けている印象は、少々違って見えた。
まるで懐かしんで泣きそうになっているような、それでいて近付けずに立ち竦んでいるような、含みのある顔だった。
「よりにもよって、ウチの前に現れるなんて。ほんとうに、いい迷惑」
思わず漏らしたのであろう女性の一言に、司令官たる少女は何を言うべきか迷い、結局は押し黙った。
大いなる波濤が、城の周囲を全て押し流す。
それは、害する者を遠ざけているようにも、城の人間を逃さぬよう囲っているようにも見えた。
湖水が地表を洗い流し、水面が城の周囲を一周するように満ちていく。
どれだけ巨大な障害によって分かたれても、巡り続ける限り、流れはいつか一つになる。
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