第53話(下)邪心の城、刈れども絶えぬ醜草共
公爵軍の王都侵攻戦から、半月ほど経った頃。
アーネはリデフォール城を訪れていた。再編された騎士団の団長から、名指しで呼び出された形であった。
復興や戦後処理に勤しんでいたアーネとしては、少しは休ませてくれと言いたい気分ではあったが、立場上応じない訳にはいかなかった。
「失礼します。アーネ・ティファート、只今参上仕りました」
「おお、来たか。待っていたぞ」
当代の騎士団長が、品の無い髭を整えながら本革張りの椅子に座っている。執務中だと言うのに、軍服ではなく派手な礼服を身に纏い、金銀の装飾品で首元や腕周りをめかし込んでいた。
室内を見渡すと、輸入物の調度品があちこちに飾られている。師であるジェラールが着任していた頃には存在しなかったから、今の団長が持ち込んだのだろう。
賓客をもてなす部屋でもないのにこんな贅沢品を、というのがアーネの第一印象だった。
それでも身銭を切っているのであれば、個人の悪趣味として看過することもできるのだが。恐らくそうでないことを、アーネは聞き知っていた。今の騎士団長が貴族院と深く繋がっていることは、騎士を叙した者であれば皆知っている。
ロベールの圧政やアルノーの台頭を経て、王宮や騎士団は刷新が図られたが、牽引していた彼らの死後、風向きは変わっていった。粛清をやり過ごした特権階級の連中が、勢力を盤石にするため派遣してきたのが、目の前にいる騎士団長だ。
「先日の戦いでは、良い活躍をしたそうだな。陛下自らが指揮をとる部隊で、特命としての任に就いていたと聞く。私も指導者として鼻が高いぞ」
言うに事欠いて、指導者ときた。
当然アーネは彼の指揮下どころか、指導を受けたことすらない。未だこういう人種が
「ところで御用向きは? 団長もお忙しい身分であらせられるので、あたし程度の末端の騎士に、お時間を割いて頂くのは申し訳なく」
「うむ。そうだった。だがこう、何と言うかだな」
騎士団長の歯切れが悪い。
やはり自分は、ろくでもない用件で呼び出されたらしい。
半ば予感していた事ではあったものの、アーネは辟易する思いになる。アディに議会と行政機関の不義不実を
「すまないが、騎士を辞めてくれないか」
「……は? 今なんと?」
だが騎士団長から出てきた言葉は、アーネの想像を超えていた。
「前からそういう話はあったのだよ。戴冠式での手柄があったとはいえ、騎士は早いのではと」
バツの悪そうな顔をして騎士団長が語り出す。
一応、突拍子の無いことを口走っている罪悪感はあるらしい。罪悪感があってなお告げられるのであれば、それはそれで、悪意なき悪意の発露に他ならないが。
「若過ぎるのもそうだし、地方から出てきた、いち平民風情がだよ。目覚ましい活躍も言ってしまえば、女子供が弱さを武器にして、不意を突いただけだ。聞けば陛下と知己であることを利用して、叙勲を要求したそうじゃないか」
差別発言のオンパレード、しかもそれを当代の騎士団長が発言しているという事実に、アーネは
冷静に考えれば、恐らく貴族院か王宮官僚の有力者が手を引いている。
だが一人や二人ではない。騎士の進退に圧力を掛けられるのだから、組織的なものだろう。
頭の中で当たりを付けつつ、アーネは冷静に反論を組み立てていく。
「騎士の位は、国王の裁可によるものです。貴族院や王宮官僚、ましてや騎士団長の一任で、当人に迫れるものではないはずです」
「迫るとは人聞きが悪い。こちらはただ、荷が重いのではと、そういう配慮が寄せられているからだね。いっそ決断してはと、そういうことをだ」
「では尚のことです。女王陛下に寄せられた信頼を、実態の見えぬ噂を根拠にあたしの判断で返上することは有り得ません。この襟から勲章を剥奪したいのであれば、正規の手続きをとって頂かねば」
首元に手を当てる。思わぬ運命で手に入れた地位だが、これはこの国を変えていく中で必要な力だ。おいそれと渡すことはできない。
団長は駄々をこねる子供を前にしたような、呆れたような溜息をついていた。
「やれやれ。あの背国者の愛人だっただけある。誰にでも噛み付く、その躾の無さ。せっかくバツが付かずに済んだのに、嫁の貰い手が無くなるぞ」
「お言葉ですが。あたしと彼の者は、そういう関係ではありません」
「そうかな、騎士団では
確かに、騎士に女の従士が付く場合、その多くは騎士の慰安としての意味を持つ。
アーネ以外にも女で従士に任ぜられることは珍しくはないのだが、悲しいかな、概ねはそういった慰安要員としてだった。純粋に実力を買われていたケースは、アーネ以外では聞いたことが無い。
だから騎士団長に指摘されたことはアーネとしては、痛いポイントではあった。
アルノーとの関係について、どういう噂が流れていたは本人達もよく知っている。言われ慣れてさえいたし、何なら適当にあしらうため、肯定に近い言葉を漏らすことすらあった。
「どうあれ、その件はあたしの叙勲とは無関係です。何なら彼の起こした事件について、共謀罪の嫌疑でも掛けますか?」
「……そこまではしない。貴様が戴冠式の折、真っ先にあの背国者に立ち向かった話は知っている。国外の賓客からも、武勇伝を聞かされているのだ。下手をすれば他国の
逆に言えば、その目撃証言がなければ、自分が騎士に任ぜられることはなかっただろう。
どうあれ自分は、アルノーの右腕だったのだ。近しい位置にいたのは、城の者ならば誰でも知っている。状況証拠だけなら、そこら中に腐るほど転がり落ちていた。
言い換えれば、それを押し除けるほどに、戴冠式の武勇伝が人々に強烈な印象を残していた。故に、自分に良からぬ疑惑を擦り付けるのは不可能。アーネはそう思っていた。
騎士団長の次の言葉を聞くまでは。
「時に、貴族院のアルバレス伯爵のことは知っているか。二年前に家督を相続した方だ」
「……もちろん。豪腕で有名ですからね」
少しだけ、アーネが言い淀む。
その意味を理解したのか、騎士団長が品の無い笑みを浮かべた。
「まあ当然か。その末弟をお前の道場で預かっているそうだな。バルデュオ・アルバレスといったか」
「彼は、正式に家から除名された身です。道場で保護している件に関しても、何年も前に当時の当主との間で話がついています」
アーネの中で沸々と、怒りが込み上げてくる。
デュオはそもそも、家督争いで兄に命を狙われ、済んでのところでアルノーに保護された身だ。
当時も、伯爵家相手に荒事こそ起こさなかったものの、今の形に落ち着くまでは一悶着があった。
「だがそれを結んだのは、あの背国者アルノーだ。兄君である現当主が弟を案じるのは、無理からぬ事では無いかね」
「アルバレス伯爵が、そのようなことを?」
「いいや。だが状況が変わったのだ。先方に改めてご意向を確認し、然るべき対処をすべきではと、騎士団内でも声が上がってね。出奔した貴族の子弟を保護し家に返すのは、騎士の仕事だろう」
それは、本気で言っているのか。
デュオのアルバレス家出奔の経緯は間違いなく、騎士団内でも共有されたはずなのに。
アルバレス伯爵は、自分の望む結果のためなら強引な手も辞さない輩だ。地位のためなら兄弟さえ食い殺す虎のような男だと、王宮では噂される。
獣から助けだした命を、またむざむざ巣穴に戻そうというのか。
アルバレス家にとってもデュオにとっても、望まれない不要な横槍だ。
「収まった火事場に油を撒くような真似は、お止めください。かの一族は、国の中枢を担う一門。その名家に、血塗られた一幕を増やすおつもりですか」
「それはあくまでアルバレス家の問題だ。なあに、あの当主ならば上手くことを収めるであろうよ」
かの伯爵がことを収めるとは、どういう結末を指すのか、分からないはずはないだろうに。首を突っ込もうとしながら、まるで他人事のように騎士団長が
ただでさえ、アルノーという抑止力が無くなったばかりなのだ。アルバレス家からの凶手が再び飛んで来ないか、気を張っているというのに。
今揉め事が起きてしまえば、アーネの力では抑えきれない。
「なあに、件の末弟もそろそろ家に帰りたがっているかもしれんぞ。本家との仲立ちを騎士団がしてやるのだ。悪い話ではあるまい」
「過去に殺されかけたのに、そんな訳が無いでしょう。本気で取り持つつもりもないくせに」
「口を慎みたまえ。元は、君がそんな身勝手な有様だから出てきた話なのだ。田舎者らしく勲章をありがたがって、大人しくしておればいいものを」
結局はそこに行き着くというわけだ。
アディへの提言が、王宮の人間達には大層不満だったらしい。
この騎士団長も含めて、アディに対処を頼みたいところではあるが。王宮の闇が表沙汰になる前に手を回された以上、腐敗は既に根深く浸透している。慎重に進めなければ足を掬われてしまう。
さてどうしようかと考えたところで、騎士団長が下品な髭面を更に歪める。
「それに君の道場、決して環境が良いとは言えないだろう。聞けば、娼婦出の娘まで居るそうじゃないか。それも裏で子供も売るような、極めて低俗な娼館だったと聞いているぞ」
アーネの顔色が変わる。
あの下劣極まりない館は、アルノーが念入りに壊滅させた。正確には実態を知ったアーネがキレて暴れて、その後始末にアルノーやジェラールを使わせてしまった。
王太子自ら動いただけあって、事件の存在自体はともかく、そこで雇われていた人間の名前などは、間違っても外に漏らしていない。
娼館はとある宰相派貴族の資金源だったが、子供にも客を取らせていた実態を暴かれてからは、最終的には宰相からも切り捨てられている。
「確か名前はメルディアンヌ、そう君の子飼いだったな。アルバレス伯爵としても、弟の傍に薄汚い女が居ると知れば、手を打つに違いない」
可愛い妹分の、にへっとした顔が脳内に浮かぶ。絆が汚されたような気がした。
細く、鋭く、刺すような視線が騎士団長を射抜く。ただ当の騎士団長は、語るのに夢中でその殺意に気付かなかったが。
「あの子は、娼館で産まれた子だったというだけです。下働きをさせられていただけで、客を取っていたわけではありません。誤解を招く言い方は撤回して頂きたい」
途端に、騎士団長が口を広げて笑い出した。
一笑に付されるという表現が、これほど合う様子も中々無い。
「娼館で下働きとして働いていた娘か、それはいい! 今後娼婦を社会復帰させる際には、それを枕詞に職業紹介所へ届出させよう。後ろめたさを無くしてやるのに、丁度いい放言だ!」
その瞬間、アーネの中で、我慢の糸が切れた。
そんな、心無い雑言に晒されるのが分かっているから、今まで余計な口外は控えていたのに。
自分はいい。
アルノーもここに至っては仕方が無い。
だがよりにもよってその二人を。
自分とアルノーが護り育てた弟妹同然の家族を。
酒と脂と我欲に塗れた人間ごときに侮辱されるのは、絶対に許せない。
椅子に背中を預けたまま笑い続け、騎士団長は隙だらけだ。
汚らしい髭ごと火術で燃やしてやろうと、袖裏に仕込んだナイフで、種火を起こそうとして。
急に、脳裏にアルノーが現れた。
騎士として出世し、
彼の全てを否定して、ここまできたのに。
自分は怒りのまま、自分を虐げる存在を屠ろうとしている。それは、自分達が拒絶したアルノーのやり方だ。
アーネは握り拳を更にぎゅっと握り締め、わなわなと震える。
「……ああ。綺麗でいるのって、正しく在るのって、こんなに難しいんだ」
大事なものを侮辱されても、怒りに任せて力を振るうことさえ出来ない、許されない。
そんなアーネの忍耐を露知らず、騎士団長は目の前で嘲笑い続ける。不道理を認識することなく、己の勝利を確信して。
怒りのまま捩じ伏せられれば簡単なのに。
アルノーを否定して今を生きているアーネには、それは許されない。あくまで平和的解決方法にこだわらなければ、その死さえ無意味なものと化してしまう。
「己の立場は理解できたな。人には分相応というものがあるのだ。思い直すのであれば、無理に話を荒立てるつもりはない」
こちらを気遣うつもりは毛頭無く、追い込む手段はいくらでもある。そういうことだ。
つくづく、王宮の闇の深さをアーネは読み違えていた。ロベール一派を排斥すれば問題解決なんて、そんな単純な話では無かった。
人々の欲望が孤島の深くまで根を張り、姿を表さないまま、他の生物を喰らい尽くす。
これは国に巣食った、組織的な腐敗だ。
女王であるアディを通すことなくアーネに罷免を迫るのだから、個人規模では無理だろう。
というより、そんな気概を持って悪事に手を染める政治家や貴族は、今のリデフォール王国には存在しない。
就寝前に焼き菓子をつまむような、もっと軽い感覚でこの悪事は行われている。
このくらいなら構わない。そんな感覚が、社会の中に染み付いてしまっていた。
「正義って、何なんだろうね。アルノー」
これと戦い続けた幼馴染は、もういない。アーネ自ら、手を下してしまった。
相談もできない、愚痴も零せない。
話の始まりは、道場の接収からだった。
場所を決めた復興庁、届出を処理した総務部門、細かい部分では、運輸や建設部門の担当者も絡んでいるだろう。そしてそれらを統括するのが貴族院。
どこかに手を入れれば済むという話でもないのが、タチが悪い。
エルから得た文書を見るに、全てが少しずつだけ関わっている。多くの関係者が、間違った申請だと理解して、その上でアディまで通してきた。
「それと女王陛下との謁見は禁ずる。戦後処理でご多忙であらせられるのだ。手間をかけさせる真似は控えろ」
つまりは連携封じだ。
或いはもっと前から、目を付けられていたのかもしれない。
アディを通して正規の手続きで抗議したのに、結果が出る前に、圧力が掛かってこのザマだ。相手の動きが早すぎるし、攻めるポイントも正確だった。
このままだと下手をすれば、デュオやディアナに関わる醜聞が市井に知れ渡り、道場の運営自体が立ち行かなくなる可能性がある。そして、そうなってから騎士を辞めても、もう遅い。どのみち居場所は無くなる。
こうなると、周りを傷付けずに済ませられる選択肢は、一つのみ。要求を呑む他無い。
ポジティブな要素も、一応は存在する。
証拠としてエルから譲り受けた文書は、既にアディの手に渡っている以上、アーネが手を引いても機能はするだろう。
とはいえアーネがいなければ、アディは精神的に孤立する。そうなれば、一連の不正に真っ向から対処できるか怪しいものだ。
既にベルサも、城から姿を消したと聞いている。そちらにも手が回っているのかもしれない。
問題を根本に解決するには、力も時間も仲間も、何もかも足りない。
「どうすれば、良かったんだろうね」
それももう、分かり切っていることではあるのだけれど。
自分の目的地の遠さと、選んだ道の険しさを。
アーネは改めて思い知った。
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