第32話 輝く大海、黄昏のリヴァイアサン

 浮彫りの装飾された柱が、半ばから折れ崩れる。

 色彩豊かなステンドグラスが、音を立て割れる。

 石床は所々陥没し、湖水が浸み出している。

 中央回廊に沿って並び立っていた水鏡ウォーター・アバターは、残り二体にまで減っていた。

 浅瀬のようになった大聖堂で、アルノーは血塗れのまま横になる。

 耳を澄ますと、どこかかから、轟々とした水の流れ込む音が聞こえた。

 

 「終わった、か」


 大泣きを晒したさっきまでと違い、不思議と絶望感は薄らいでいた。

 本当は、とっくに分かっていた。

 大勢の前で己の素性を明かされたとき、最早願いは届かないのだと。

 アディやアーネを傷付け殺そうとしたとき、願いは叶えるに値しないものに成り下がったのだと。

 悪足掻きをすればするほど、沼に嵌って抜け出せなくなっていた。


「誰にも分け隔てない社会を作る。嘘じゃあ、なかったんだけどなあ」


 それが、歪みに歪んだ結果がこの様だ。

 自業自得では、あるのだけれど。

 アルノーの胸では埋め込められた大海蛇の水晶リヴァイアサンが負傷を癒すため、術の出力を上げようとしている。

 さっきまでは反省を促すかのように無反応だったのに、今になってようやく大海蛇の水晶リヴァイアサンは術の起動に応じようとしていた。

 水に囲まれたこの状況なら、大海蛇の水晶リヴァイアサンさえ力を貸してくれれば、今からでも治療は間に合うだろう。崩れ行く大聖堂からの脱出も、或いは可能かもしれない。

 だがアルノーは、今更そうするつもりにはならなかった。自動発動しようとする治癒の力を、宿主であるアルノーは押し留め、水術の発動を拒絶する。

 気紛れな大海蛇の水晶リヴァイアサンを責める気にはなれなかった。むしろそれは必要なことだったということが、今でははっきり分かる。大海蛇の水晶リヴァイアサンに、失望され裏切られたせいだと思ったが。あれは相棒なりの気遣いだったのだ。

 

「もういいんだ大海蛇の水晶リヴァイアサン。もう、何もかも」


 もう回復は必要ない。自分の夢は、ここで終わりと分かったから。今ようやく、その事実を受け入れられる。


「すまない大海蛇の水晶リヴァイアサン。お前にもっと、綺麗な世界を見せたかった。弱い相棒で、本当にすまない。これで最後だから、もう一度だけ力を貸してくれ」


 最後の水術をアルノーが行使する。最早指を動かすのも覚束ないものの、幸い操る水は豊富にある。

 己への癒しではなく。多くの人を救うための、純然たる奉仕のために。


 ふと横を見ると、そこにはかつての師が立っている。もう見慣れた幻影。それでもジェラールには、いつもと違うところが。


「何ですかその顔。『お前は本当に、言うこと聞かないな』みたいな。知ってますよ。止めようとしてくれてたんでしょ」


 このままではいつか必ずアーネと、守りたい対象と争う未来になる。

 最悪の未来を止めるために、わざわざ化けて出てきたと言う訳だ。


 水術を使ったからか、水人形がまた一体壊れる。残り一体。

 自分に残された時間も少ない。

 水が輝く。輝きが拡がる。足下から大聖堂全体、そして周りを囲む湖へ。

 それを確認したアルノーは胸に手を当て、輝きの根源となっていたものを、掴む。

 痛みはなく、それは光を伴ってするりとアルノーの胸元から抜けていった。


「お別れだ大海蛇の水晶リヴァイアサン。みんなを頼む」


 大海蛇の水晶リヴァイアサンを、足元を漂う水に浸し沈める。湖一帯に拡がる光は、更に輝きを増していく。

 それを見届けて、今度こそアルノーは大の字に倒れ込んだ。もう、指の一本すら動かせない。


「あの時と逆ですね、先生。ごめんなさい。結局貴方の命、無駄にしてしまいました」


 幻に手を伸ばそうとするが、動かない。

 身体中から次第に力が失われる。


「頑張ったんだ、けどな。悔しい、なあ」


 抗うこともできず、アルノーは意識を失う。

 涙に塗れる目から、光が失われていく。

 温かいものに包まれる感覚を覚えながら、冷たい水の中に沈む。

 待っていたかのように、大聖堂が崩れ落ちる。

 何もかも瓦礫が押し潰し、湖の底に運んでいく。

 

 その日、大海蛇の末裔は水底に還った。

 抱えきれない野望を抱いたまま、沢山の未練をおかに残して。

 淡い温もりの中に微かな寒さが残る、春の初めの出来事だった。





 結論から言えば。

 アディ達の先導による大聖堂脱出は、失敗に終わっていた。

 誘導に不手際があったわけではなく、むしろ手順書にない脱出劇において、十分臨機応変な対応ができていた。

 だが、あまりにも状況が悪い。

 崩落間近の大聖堂から外に出ても、周囲は高波が発生する湖に囲まれている。アルノーの水術が暴走状態にあったため水上が荒れ狂っていたし、大聖堂の主塔が断続的に崩れて湖に落下したことで、波が一向に止まないのも痛手だった。

 居合わせた水使いや風使いも奮戦したものの、流石に百を超える参列者並びにスタッフを無事に通過させることはできず、早々に術を維持できなくなっていた。

 それにより多くの人間が湖の高波にさらわれることになり、大惨事となるのは不可避の状況に陥っていた。


 湖が突如として光を放ったのは、そんな時だった。

 光が拡がるにつれ、荒れ狂っていた湖上は穏やかさを取り戻し、凪を作っていく。

 大聖堂からの落下片も、波紋さえ作ることなく水面が受け止めていた。

 波に呑まれた人間も、光が湖を満たした途端、まるで羊水の中の胎児のように、溺れることなく湖水に包まれた。誰一人として傷を負うことなく、光輝く湖水に運ばれ岸に辿り着く。湖岸に上がった者達は、誰も彼もが不思議そうな顔を浮かべて、光る湖を眺めていた。

 そんな中、最後と思われる脱出者が、光る水膜にくるまれたまま陸地に揚げられる。

 水膜が自動で弾け、水に戻る。水球の中から現れたアーネは、呼吸も正常で意識もしっかりしている。それどころか、大聖堂での決闘の傷さえ癒えた状態だった。


「っ、ここは? 大聖堂の外?」

「アーネさん、無事でしたか!」


 辺りを見回すアーネの傍に、アディが駆け寄ってくる。勢いのまま抱きついてくるのを、慌てることなくアーネがキャッチする。

 お互い無傷であることを確認して、二人は無事を祝いあった。


「もう、残ったと聞いたときは血の気が引いたんですよ! でも本当に、よくご無事で」

「勝手なことして、ごめんね。それにしても何が起きてるの、これ」

「分かりません。大掛かりな水術が発動しているとしか。でもこんな規模、聞いたことがありません」


 少なくとも、脱出を補助した水術師によるものではない。

 故に答えは一つしかなく。

 とはいえ彼は、己を治癒できないほど重傷を負っていた。その上、立場上は敵対者である。本来はアディ達を助ける立場ではないはずなのだが。


「でもこれ、アルノーの水術だよ。そうとしか考えられない」


 岸に運ばれた人間はみんな無事なようで、脱落者がいたという報せは届いていない。参列者達をさらった湖は彼らを護り、帰るべき場所まで送り届けたのだ。

 先ほどまで高波が発生していた湖上は、今は静かなものだった。

 アルノーの水術によるものだと思われる光が、夕陽を受けてより一層赤く輝く。湖から川に抜けて遠く海まで、光は浸透していった。

 魂が燃え輝くような温かな橙色が、リデフォールの海を覆っていく。

 雲ひとつ無く、遮るものも無く。

 惨劇の目撃者達の生還を祝うべく、夕焼けは煌々と燃える。


「凄い。なんて綺麗な黄昏」


 自然に出たアーネの呟きに、アディも黙って首肯した。

 二人だけではない。

 岸に上げられた誰もが、そのまばゆい輝きに見惚れていた。


 終わりは必然で、唐突だった。

 遠く大聖堂が、完膚なきまでに崩れ落ちる。大きな音を立てて、荘厳な主塔は一瞬で視界から消え、瓦礫と化して湖に沈む。

 同時に、湖の輝きも止む。

 まるで水底に吸い込まれるように光は失われ、元の暗い色を取り戻していく。

 沈む太陽の赤色が、寂しげに湖面に反射する。

 もう何も無い場所を、それでも何かを探すように光を照射していた。

 

 アーネは本能で、分かってしまった。

 大事なものが、今この瞬間に失われたのだと。

 手の届かない場所に、去ってしまったのだと。

 小さな頃からずっと、近くにあって。

 きっとこれからも、傍にあったはずのもの。

 寄り添うのが当然だと信じていたものが。

 たった今、この世から消えた。


「……っ、あぁ。っうあああああぁぁぁぁ!」


 気付けば、声をあげていた。

 お気に入りの玩具を取り上げられた赤子のように、アーネは泣き叫んだ。

 我慢なんて効かなかった。

 自分の奥底から湧き上がるまま、感情のままに大声を出し続けた。

 遅れて事態を察したアディが、アーネを強く抱きしめる。誰の目にも留まらないように。今だけは思う存分泣けるように。泣き震えるアーネを、しっかりと包む。


「っく、アルノー、アルノー! ぅあああぁぁ!」

 

 夕陽が沈む。

 大地のどこにも光は残らない。

 全てを塗り潰す灰色の影が、東から迫る。

 湖岸に打ち寄せる波の音だけが、鎮魂歌のようにその場に響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る