第31話(下)運命の扉、大願の終着点

 アーネが運命を受け入れ、目を瞑る。

 振り下ろされる死神の鎌に、身を預ける覚悟を決めた。

 次の瞬間。

 数多の剣が、アルノーを前後から貫いていた。


「……え? 何……で?」


 アーネが思わず呟く。

 体勢的に、どうあっても迎撃や回避は間に合わない。だからこそ死を覚悟した。なのに何故、自分は無傷なのだろうか。

 突飛な状況を前に、アーネはまともな思考ができなかった。

 そして一番理解できなかったのは、弟子達が揃って、アルノーに刃を突き立てていること。

 オクタビオとノルン、ディアナだけは少し離れた位置にいるものの、それ以外の六人はいずれも剣を握り、四方からアルノーを貫いていた。


「っ。師範、それだけは駄目です。それだけは、してはいけないんです。っうぅ、ぅあ」


 涙しながら、恐らくは一番に飛び込んだのであろうデュオが言葉をこぼす。

 アルノーと弟子たちの間には、水術で生成された不可侵の水のバリアがあったはずだ。それなのに、檻の外にいた年長組の弟子達は、揃いも揃って内部に立っている。

 そもそもアーネ自身も、二度もアルノーの水壁を突破できている。他の衛兵達は、入り込めず檻の外にいるのに。檻を形成するアルノーの水術に、何らかの不具合が発生したのかもしれない。

 ごふっ、という音が聞こえる。アルノーの口から錆び臭い赤いものが零れて、彼の口の周りを汚していく。胸や腹からは、朱に染まった剣身が生えていた。次第に赤黒い染みが広がっていく。

 それが何を意味するのか、アーネは分かっているが、分かりたくなかった。


「俺は、今。一体何をしようと、したんだ」


 誰に向けたか分からないその問いかけは、鉄錆のような臭いがした。

 アルノーが半ば呆けたように、自身の身体を貫いた剣の一本に触れる。ねっとりとした血が、彼の指に絡みついた。


「いやだ、死ねない。死にたくない。何のために、ここまで、俺は」


 門下生達が、合わせたように剣を抜く。

 返り血を撒き散らしながら、アルノーがその場に崩れ落ちた。


 その瞬間、聖堂内上部に形成された台風が弾けた。水や氷を撒き散らしながら、荒れ狂うように大聖堂内を嵐が駆け巡る。水の檻や杭も豪風に砕かれ、周囲に降り注ぐ。湖水もアルノーの制御を外れたのか、屋外でも水柱が倒壊し、大波を生じさせている。

 大きな揺れが大聖堂を襲う。硝子窓が砕け、波が屋内へと入り込んで、厳かな聖堂を水浸しにした。

 内と外からの衝撃に、床や壁が軋み崩れていく。

 戴冠式の会場がパニックに包まれた。

 参列者達が逃げ惑い、悲鳴を上げる。

 その声で、茫然自失状態だったアーネが、自分の為すべきことを自覚する。我を忘れている場合ではない。最早、大聖堂は安全ではない。このままでは戴冠式で多数の死傷者が出てしまう。

 心中に湧き上がる、アルノーの傍に駆け寄りたい衝動をアーネはぐっと堪える。


「アディ、お客さんを外に避難させて! ここはもう倒壊する!」

「外ですか⁉︎ 湖水に囲まれて、おまけに波まで立ってますよ!」

「水術師と風術師で、無理矢理鎮めて貰って! 倒壊に巻き込まれるよりは、マシだから!」

 

 大聖堂がある場所は大雨が降ると道が水没するため、水術師の数だけは揃えている。陸地から離れたわけではないから、波が静まれば脱出できるはずだった。

 誘導が上手く叶うならの話ではあるが。

 既に狂騒に包まれた今、どれだけ指示に従ってくれるか。現に一部の観客は、出入口に殺到して守衛に詰め寄っている。

 アディに目を合わせるとそれで十分伝わったようで、首肯を残して出入口まで駆けていく。


「落ち着いて皆さん! まずは水術師と風術師の方、会場出入口に参集願います。水を引かせつつ、陸地までの道を確保してください。その間に参列者の皆さんは列を組んで。順番に脱出させます!」

 

 王室の直系である彼女ならば、場を纏められるだろう。守衛達も彼女に従い、参列者の整理を始める。とはいえ、手は足りていない。

 ふと横を見ると、門下生達が立ち尽くしていた。剣は既に手放しており、近くではアルノーが血塗れで倒れ伏している。アーネは胸に鋭い痛みを得るものの、今は感傷に浸っている場合ではない。


「みんなも整列と誘導を手伝って! 泣いてる暇はない、このままじゃあ死んじゃうよ!」

「ねーさん、わたし……」

「ディアナもいつもの元気はどうしたの! 風か水の魔石持ってるなら、術師を手伝ってあげて!」


 何か言いたげなディアナは、それでも何も言わずに、他の門下生達と共に脱出の準備に取り掛かる。

 唯一残ったデュオはアルノーの傍を離れず、泣き続けていた。


「師範代、僕は、ぼくは。こんな、っうぅ」

「デュオ君。辛いことさせてごめん。あとは、あたしの役目だから。ね」


 デュオの鳩尾に、アーネが容赦なく拳をめり込ませる。小さな呻きと共にデュオが倒れ、アーネは優しくその体を抱き止める。


「エクトル、わざわざ気配消さなくていいから。ちょっとデュオ君預かって」


 後方から痩せぎすの青年、エクトルが現れる。デュオと共に諜報を仕込まれた門下生で、その縁もあってデュオとは仲が良い。その場を離れな親友を心配したのだろう。

 アーネからデュオの体を引き受け、肩で支えて持ち上げる。


「ごめんね。大変だろうけど、そのまま離脱して」

「承りました。師範代は?」


 アーネが困ったような表情を浮かべ、首を横に振る。それだけで察しがついたのか、エクトルは小さく会釈だけ残してその場を立ち去った。


 周囲の喧騒はだいぶ収まってきている。アディ達が上手く参列者達を誘導できているのだろう。

 そのせいか、壁の軋みや足元を流れる水音が、やけに大聖堂内に響いていた。音の大きさから察するに、もう間も無くここは崩れるだろう。

 人がいない中央部で、剣を掲げたまま静止していた水人形が音を立てて崩れていく。十体いた水人形が、既に五体まで減っている。

 だが残っているということは、術が解除されていない、術主はまだ生きているということだ。


「まあ、一人じゃ可哀想だもんね。あたしが責任取らなきゃだ」


 何かを諦めたかのように薄く微笑んで、アーネが長い長い溜息を吐く。

 血溜まりに沈む幼馴染の傍に近寄り、そのまま腰を下ろした。

 四方から貫かれ、豪奢な式服は見るも無惨に引き裂かれ血に塗れている。胸元では紋章の形態をとった大海蛇の水晶リヴァイアサンが、まだ光を放っているようだった。しかし多少の外傷なら治癒できる水術も、これほどの致命傷には効果がないのか、傷口は塞がるどころか、止めどなく血が流れ床の血溜まりを広げていく。

 やはりまだ息はあるらしく、耳をすませば何かを呟いているのが聞こえた。


「っはぁ、はっ。いやだ、まだ死ねない。……全部、捨てたのに。っ、大事なものだから。その為に何もかも諦めたのに」


 複数の裂傷による痛みか、それとも己の運命を悲嘆してか、はたまた弟子達に裏切られた無念か。

 アルノーは涙を浮かべながら、嗚咽をこぼす。


「沢山人を傷付けて、殺して。それが無意味になってしまう。……リデフォールを、変えるんだ。こんな所で、途切れさせは」


 アルノーがくぐもった咳をして、口から大量の血を吐き出す。六本もの剣に貫かれたため、内臓も大きく損傷しているのだ。胸の大海蛇の水晶リヴァイアサンが淡く輝くものの、彼の傷が癒えることはない。


「もう、いいんだよ。アルノー」


 アーネが倒れ伏すアルノーの頭を、優しく持ち上げ膝の上に乗せる。息が楽になったのか、アルノーの咳き込みが止んだ。


「その願いは、もうどこにも続かない。誰からも支持されない。アルノーの夢は、もう終わったの。もうどこにも行けないの。だから、ここがあなたの願いの終着点」

 

 誰かが、終わらせてやらねばならなかった。それが例え残酷な真実だとしても。

 見果てぬ願いを手放せぬまま逝くのは、辛いだろうから。せめてその荷を下ろしてやらねば。


「っぐ、ぅあ。うぅっ、っく、うあああああぁ!」


 それは声にならない声だった。

 流れ行く水の、砕けるステンドガラスの、そのどれよりも染み込んでくる悲痛な声。

 成人を迎え騎士の称号を得て、一国の王にまで上り詰めようとした男が今。

 アーネの前で声を上げ、目をくしゃくしゃに歪ませて泣き叫んだ。

 いつから、こうなってしまったんだろう。

 いつから、おかしくなっていたんだろう。

 色んな、ああしておけばこうしておけばが頭を駆け巡る。

 分かるのは、彼がこうなってしまったのは自分のせいで。

 その為に彼は、色んなものを置き去りにしなくてはいけなくて。

 アーネは胸に込み上げた感情のままに、泣きじゃくるアルノーの頭を抱きしめる。

 母が泣きじゃくる子を宥めるような優しい声で、アーネは言葉を紡いでいく。



 大丈夫だよ。ちゃんとあたしも傍にいるから。

 何も分かってあげられなくて、ごめんね。

 でも今度は離れないから。

 痛いよね、いっぱい怒ってるよね。

 殴ってもいいよ、罵ってくれていいよ。

 それでいつか、気が晴れたら。

 そんな日が来たら、また一緒に遊ぼうね。

 天国でも地獄でも、付いて行くから。



 声を上擦らせながら、アーネはアルノーを包み込む。アーネの目にも、いつの間にか涙が流れていた。止める気も無かった。


「ずっと、一緒?」

「うん。ずっとね」


 泣きながら、しかし笑顔でアルノーを見つめる。

周りでは彼の水鏡ウォーター・アバターが、一体また一体と、次々崩れていった。

 もう、時間がない。大海蛇の水晶リヴァイアサンの光が萎んでいく。塔が崩れるより早く、水に飲み込まれるより早く、彼は絶命してしまう。

 抱きしめる腕の力を、アーネはさらに強める。

 アルノーはいつの間にか泣き止み、アーネの胸に顔をうずめていた。


「ずっと、一緒にいたかった」

「そうだね。あたしもだよ」

「一緒の景色が、みたかった」

「うん」

「国が変わらないと、連れて行ってあげられないと、ずっと」

「あたしは、どこでも良かったんだよ。あなたがいれば。どこだって、幸せだった」

「だからせめて」


 アルノーがアーネの頬に、血塗れの指を伸ばす。

 拒むことなく、アーネはそれを受け入れる。


「せめて君だけは」

「うん。一緒にいる。付いてくよ」

 

 その瞬間。

 抱き合った二人を無理矢理剥がすように、水の膜が現れた。

 驚く間もなく水膜はアーネを包み込むように、球体状の膜となる。


「幸せに生きて。いとしいアーネ」


 水球がアーネを閉じ込めたまま、ゆっくり動き出す。球内は毛布に包まれているかのように柔らかく、息苦しさも感じない。


「アルノー⁉︎」


 水浸しの床を、滑るように水球が移動していく。

 アーネを連れて、大聖堂の出口へと。


「アルノー、何で!」


 アルノーは何も言わない。

 血溜まりの中で、身じろぎもできないまま。

 ただ、血で汚れた口角を、少しだけ曲げて。

 まるで仕事終わり先に帰るアーネを、送り出すように。

 優しげな笑みで、去り行く水球を見送っていた。


 それが、アルノーとの最後の別れになった。

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