ゲームセット [後編]

 何を言っているんだ。ついさっきまで、満と一緒にいたじゃないか。

 エイプリルフールにはまだ早い。


「寝ぼけているのか、満里?」

「修二……、いい加減目を覚まして。兄さんは納骨殿に居るの」


 頬が、冷たい両手に包み込まれる。満里の目は、真実を語っていた。


「兄さんと修二は、ここで一緒に働く予定だった。良く聞いて。聞いてちょうだい。あれは、事故だったのよ。兄さんは、石段から落ちて死んだの」


 両手を血に染めた男が、泣き叫んでいる。聞きなれた声。

 あのとき夜空に向かって吠えていたのは、自分だ。


 泥水のようにふつふつと記憶が湧き出してきた。

 情報でしかない点の集合体が一本の筋となり、修二の脳を貫く。

 

 思い出した。





 満が退院してしばらく経ったころ、神梅神社の従業員を集めて歓迎会が開かれた。主賓は、修二と満。早めに席を外した満を、修二が神梅神社まで送ることになった。宮司も満里も、まだ飲み足りなそうだったからだ。修二は石段を避けて遠回りをしようとしたが、満が嫌がった。「病人扱いするなよ」と笑っていた。


 修二は、満の後ろを歩いた。びた手すりしかない石段である。めまいを起こしたら、落ちてしまうかもしれない。怪我をさせておいて言う資格はないが、満がまた頭を強打することは避けたかった。医師にも気をつけるようにと言われていたはずだ。そのまま後ろを歩いていれば、満は死なずに済んだのだろう。満は言った。


「お前が前を歩け」

「なんでだよ」

「歩かせてやるって言っているんだから、有難く俺の前を歩いていけよ。付いていってやるから」


 聞こえないふりをすれば良かった。無視をすれば良かった。

 大胆不敵という言葉がお似合いの満がそんな台詞を吐いたら、明日は大雨になる。

 からかってやろうと思った瞬間、満が振り返った。

 灯篭に照らされた満の目元は垂れ、花が咲いたような微笑みが唇を彩っている。


(怪我して入院したせいで、満がすっかり丸くなっちまった)


 調子が狂った俺は、満に言われるがまま前を歩いた。


「なぁ、満」


 やけに静かだなと思って振り返ると、そこに満はいなかった。


 付いていくのは俺で良かったんだ。

 顔も頭も運動も性格も、何から何まで満には敵わない。

 打ちどころが悪かった、と医師は言った。

 二回目ですからね、その言葉が剣となり心に深く突き刺さる。

 あの後、逃げるように神道の勉強に打ち込んだ。満が死んだという事実に蓋をして。





 声が枯れるまで、満里を抱きしめて泣いた。二人でひとしきり泣いたころ、宮司が納骨殿の鍵を渡してくれる。満は、本当に納骨殿に居た。遺骨は何も言わなかった。「しばらく休ませて欲しい」と頼むと、宮司はすぐに答える。「その方がいい。待っているから」


 宮司の優しさに甘えて、二週間近くも休んでいる。何をするということもない。布団にくるまって泥のように眠るだけで、日々が過ぎていく。夢の中で何度か満の声を聞いた気がするが、目を覚ますとすっかり忘れてしまっていた。


 神梅神社の従業員はみんな、修二が、満の幻覚や妄想に苛まれていることを知っていた。何度か精神科にも連れていかれたようだが、様子を見るしかないと言われたらしい。


 修二が混乱しないように、満里が、幻覚や妄想の相手をすることになった。思い返してみれば、満と喋っているときに飛び込んでくるのは、いつだって満里だったのだ。満里だって、満を亡くして傷ついていた。拷問のような日々だっただろう。


 頭まですっぽりと毛布に包まったまま、テレビのスイッチを入れた。コタツ机には、食べ終えたカップラーメンの容器がいくつも並んでいる。ミノムシの格好で寝ているだけでも、食べないと生きていけない。満里に、満はごく潰しだと言ったことを思い出し、胸が痛んだ。


 テレビが映し出したのは、春の選抜高校野球の開会式だった。


「宣誓! 僕たちの春は、選抜高校野球から始まります」


 雰囲気が満に似ている。早くも、県内の女子生徒たちを泣かしているのかもしれない。


 春が来たと言われてしまったのだから、仕方がない。修二は、脱皮を決める。

 大きく背伸びをしてから、生暖かい抜け殻をベランダに干した。





 ブルーシートに座っている満里が、振り返った。ジーンズの上に、ペールピンクの薄手のセーターを羽織っている。巫女装束とは一味違った可愛さに、胸がくるりと躍った。


「修二?」

「修二君。投げてくれるのかい?」


 神梅神社の従業員たちは、目を丸くしている。時が止まったかのような静寂が流れた。修二は宮司の目を見て、大きく頷く。ユニフォームから出た両手の手のひらが、駄々っ子のように拒否反応を起こしている。拳を握りしめると、満里が立ち上がった。そっと修二の手を取り、包み込む。


「修二はいつだってカッコ良かった。マウンドで輝いてた」


 満里の目が見られない。過去の話だ。こんな手でまともな投球なんて出来るわけがない。満里には、もうとっくに愛想を尽かされてしまっているだろう。


「今日の修二もカッコ良い」

「満里?」

「修二は挑戦者だもん。私は、そんな修二が好きなの。どんな球でもいい。へなちょこだって笑われてもいい。修二、試合を終わらせてきて」


 満里の顔に満開の梅が咲いた。満里の頼みにノーは言えない。

 町内の草野球大会は、ルールがあってないようなものらしい。宮司が相手チームに掛け合うと、二つ返事で修二の登板が決まった。


 マウンドに立つ。両手の震えは収まっている。満里が魔法でも掛けたのかもしれない。

 大きく振りかぶった。


「ストライク・ツー」


 ストライクあと一つで、ゲームセット。

 何十万回と繰り返した動きを、体は忘れない。

 振りかぶり、渾身の力で投げた。


 白珠は吸い寄せられるように、キャッチャーのミット目掛けて飛んでいく。

 本能的にバットが追うが、ボールはその下をすり抜ける。

 バシャッ

 ミットの中心にボールが飛び込んだ。


「ストライク・スリー」


 審判員の右手が、空へと突き上げられる。


「ゲーム!」


 懐かしい声。審判員の後ろに、親友はいた。

 満は、修二の死球に倒れた日と同じユニフォームを着ている。

 手のひらを上げ、子どものようにはしゃいでいた。


「修二。ゲームセットだ。俺たちの最後の試合が終わったぞ!」


 あぁ、そうか。

 バットを握りしめたまま倒れた満の姿が心に浮かぶ。

 満は、あの試合を終わらせたかったのだ。

 

 ごめんな、満。俺が、全部悪かったよ。


 満に駆け寄り抱きしめた。体が、どんどんと薄くなっていく。満の口元が動いているが、何を言っているのか分からない。何かを必死に伝えようとしている。


「聞こえねーよ。満。……ずっと一緒に居てくれよ! 隣に居てくれよ!」


 満は小さく首を横に振った。目元は垂れ、花が咲いたような微笑みが唇を彩っている。


「楽し……かった」


 芳しい香りだけを残して、満は消えていった。


「梅の香りがする。……兄さんが来ていたのね」


 崩れ落ちた修二を後ろから抱きしめて、満里は耳元で囁いた。





 神梅神社の梅林は花盛り。静かな春の日差しの中で、満里は梅よりも高潔に咲いていた。絹のようになめらかな手を優しく取る。言うことは決まっている。


「俺は、満里を怒らせません」


 満里が、つばめのように小首をかしげた。


「俺は、満里を泣かせません」


 口元が、ゆるやかな孤を描いている。


「俺は、満里を大事にします」

「なにそれ。選手宣誓?」


 満里は、子どものようにころころと笑いだす。修二から手を放し、腹まで抱えてしまっている。

 袴をさばき、片膝をつく。


「俺と、結婚してください」

「宣誓。私は、修二と結婚することを誓います」


 春の光が動いた。満里の後ろの梅の枝が、賛同するように揺れている。

 風が緩み、やわらかな馥郁ふくいくが二人の上に降り注いだ。

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