ゲームセット

ちょぽっと

ゲームセット [前編]

 拝殿の廊下の片隅に、みちるは鎮座していた。修二には纏うことを許されていない紫色の袴に身を包み、ピクリとも動かない。満は自分のことを、神社の石柱とでも思っているのだろう。鳥居の前に立っている本物の石柱の方がまだ役に立っている。神梅かんばい神社という社号を、参拝者たちに伝えてくれているのだから。


 満は目を瞑っており、長く黒いまつ毛がかすかな影を落としていた。陶器然とした白い肌には傷一つなく、細く筋の通った鼻は職人に型取らせたかのように整っている。


「ここに満が陣取っていれば、年頃の女性参拝客は増えるかもしれないな」

「……嫌味か?」


 狸寝入りをする気はないらしい。満は、うっすらと切れ長の眼を開く。


「言われたくなかったら、ちょっとは働いたらどうだ?」

「働きたくても働けないんだろ。誰かさんのせいでな」


 満はわざとらしく右手を上げて手首をだらんと下に垂らしてから、左右に振った。


「……出来ることはあるだろう? お前は、この神社の一人息子なんだぞ。自覚あるのかよ」

「修二が、この神社を継げばいい」

「そうやって、いつまでひねくれているつもりなんだ?」

「もう、何やってんのよ!」


 振り向くと、巫女装束に身を包んだ満里まりが立っていた。手に持った竹ぼうきを、否応なく押し付けてくる。満は鼻を鳴らし、また目を瞑った。


「満里は、満に甘すぎる。満里だけじゃない。神梅神社のみんながいつまでも甘やかすから、満は怪我を言い訳にしてなにもしない腰抜けになってるんだぞ。それでいいのかよ?」

「腰抜けは、お前だろう」


 目を瞑ったまま、満が呟く。


「仕事しないお前に言われたくないよ! 黙ってろ」


 至極真っ当なことを言ったはずなのに、満里は周囲に参拝客がいないのを確認してから、修二の頬をつねった。


「兄さんは、働かなくてもいいのよ」

「妹がこれじゃあな。満は、神梅神社のごく潰しのままで一生を終えるんだろう」

「…………」

「どうせ満里も、俺のことを恨んでいるんだろ? 満がこうなったのは、全部俺のせいだって」

「そんなこと言わないで」

「はいはい。全部、ぜーんぶ、俺のせいですよ」


 半ば投げやりのように言い捨てると、満里の平手打ちが飛んだ。


「……社務所の周りの掃除をしてきて」


 少し痺れる頬を撫でる。


(なんで、俺たちこうなっちまったんだろうな?)


 修二の心の声が聞こえたのか、満里は白衣びゃくえの袖をひるがえし逃げるように駆けていった。

 知らぬ間に、有効期限が切れかけている恋。


(俺たち、まだ付き合っているよな?)


 満里に更新手続きの方法も聞けない自分は、満の言うように腰抜けなのかもしれない。





 社務所の前には梅林ばいりんがある。蕾はまだ固い。これだけ寒くては、梅の花も縮こまってしまうのだろう。凍えた両手に息を吹きかけてから、竹ぼうきを握る。


 満里に頼まれたことにノーは言えない。惚れた弱みというやつだ。満里は少し勝気なところがあるが、打たれ弱くて涙もろい。鈴のように大きな瞳の縁に溜まった涙を、何度拭ってやったか分からない。放っておけなくて恋仲になったのは、十年も前の話だ。


 今は、状況が少し変わってしまった。


 満里の周囲には、私の言うことに歯向かわないで、とでもいうようなオーラが漂っている。実際、満里に頼まれたことにノーとでも言おうものなら、平手打ちが飛ぶようになった。以前、聞いたことがある。


「いつからそんなに気性が荒くなったんだ?」

「変わったのは、修二よ」と満里は呟いた。


「修二君、この前の件だけど……」


 社務所の窓から、宮司が顔を出す。満と満里の父親だ。数年前、仕事のあてがない修二を拾ってくれた、恩人でもある。


「申し訳ないのですが……。それだけは、勘弁してください」


 頼みを聞き入れることが出来ない自分が歯がゆくて、宮司の目を直視できなかった。


「気にしないでよ。町内の草野球大会で投げるなんて、嫌だよね」

「嫌だとか、そんな風に思っているわけじゃないんです」

「気が向いたら、投げに来てよ。いつでも歓迎だから。私は、修二君のファンなんだ。満に聞かれたら怒られちゃうだろうけど」


 底が抜けたように明るい声で言い終えると、宮司は窓ガラスを閉めた。

 

 竹ぼうきが手から滑り落ち、カランと乾いた音を立てる。


 小刻みに震えている両手の手のひらを合わせてから組んだ。駆け出しの神主が神社でキリスト教徒のお祈りポーズをするなんて不謹慎極まりないが、こうしないと震えが上腕まで上がってくる。震えが収まるのであれば、この際、どこの神にでも仏にでも祈ってやる。


「こんな手じゃ、投げられませんよ」


 誰に聞かせるわけでもない呟きは白い息となり、鉛色の空へと溶けていった。





 満を野球の世界に引き込んだのは、修二だった。肌に合わないという理由でさっさとサッカー部を辞めてしまった満を、野球部に勧誘したのだ。中学一年生のときだった。


 野球だけは、飽き性の満に付き合ってやったらしい。大学に入って辞めたと聞いていたのに、試合会場で満と鉢合わせてさすがに度肝を抜かれた。「ピッチャーを動揺させるのは作戦のうちだから」満はあっけらかんと言い放つ。4 – 9 で負けた。


 大学を卒業しても、野球は俺たちを見捨てなかった。運が良かったのだ。修二も満も、大手企業の社会人野球チームにスカウトされた。


「神社を継がなくていいのかよ?」


 修二は満に聞いた。満は、大学で神道を学んでいたからだ。

 満の唇には、不敵な笑みが浮かんでいる。


「そんなに、俺と試合するのが怖いか?」


 それ以来、満の家の心配をすることは馬鹿らしいので辞めた。


 大手企業に雇われたので、収入は安定していた。その上、大好きな野球も出来る。そろそろ満里にプロポーズをしても良いかもしれない。そんな風に考えていた矢先の出来事だった。


 満がバッターボックスに立つ。その口元には、凄みを効かせた笑みが張り付いていた。考えていることは、テレパシーのように伝わってくる。それも音声付きで。次、打つから。


 させるかよ。大きく振りかぶった。


「ストライク・ツー」


 ストライクあと一つで、ゲームセット。

 満の双眼には、闘志の色が浮かんでいた。

 何十万回と繰り返した動きを、体が自動的に再現する。

 振りかぶり、渾身の力で投げた。


 白珠は吸い寄せられるように、満の頭部目掛けて飛んでいく。

 本能的に察知した満がのけぞる。

 何者かが、糸でボールを操ってでもいるようだった。ボールは、ヘルメットのこめかみ部分を直撃した。ヘルメットが吹き飛んでいく。

 

 バットを握りしめたまま、満は仰向けにバタリと倒れた。


 修二が覚えているのは、そこまでだ。

 瞼の裏に刻まれ、夢の中でリプレイされ続ける光景。


 我に返ったときには、満は担架で運ばれた後だった。

 故意死球を投げたわけはない。平常心で投げたはずだ。


 野球の神様に見放された、と修二は悟った。

 周囲が引き留める声も聞かずに仕事を辞めたが、誰も責めたりしなかった。たった一人、満を除いて。満里は、少し悲しそうな顔をしていたかもしれない。


 自宅に引きこもり、人の煩悩の数ほどの白球の糸を解いてみた。中から出てきたのは、鳥の巣にしかならないような色くずと、コルク。夢なんて、端からそこには詰まっていなかったのだ。





 拝殿に戻ると、満が足を投げ出して、ぼんやりと空を眺めていた。


「一日中そんなところに居て飽きないか?」

「修二が馬車馬のように働かされているのを見ていたら飽きないぞ」


 働かないのに、口だけは一人前だ。


 拝殿から祝詞の声が聞こえなくなった。初節句祝いのご祈祷が無事終わったのだ。花柄の入ったピンク色の着物に身を包んだ幼児が、スーツ姿の女性に抱かれている。修二と満を交互に見て、嬉しそうに声を上げて笑った。幼児は、祈願受付所になっている客殿へと連れられていく。


「かわいいもんだな」


 満が、素直な感想を呟いた。


「女を散々泣かせてきた男が言うセリフかねぇ」


 満の周囲には、いつだって女の影がちらついていた。野球青年で美形ともなれば、スポーツ好きの女の方が放っておかない。試合の度に追い駆けてきた満ファンクラブの会員たちは、未だに健在だろうか。


「嫉妬しているのか?」

「人の気も知らないでよく言うよ」


 神梅神社の跡継ぎがのんべんだらりと過ごしていて良いはずがない。宮司も満里も放任という姿勢を改めないので、修二だけが満に仕事をさせようと躍起になっている。


「修二のことは、隅から隅まで良く知っているつもりだぞ」

「お前は、ほんといいご身分だよな」

「俺のことが、よっぽど好きなんだな」

「ふざけるな。俺の知っている満は、もっとカッコ良かった」

「俺の台詞を取るなよ。俺は、お前のことをすごく心配しているんだぞ。だから俺は……」

「俺の心配をする暇があるなら、一緒に掃除でもしたらどうだ!」


 背後から、くすくすと笑い声が聞こえた。学生服を着た少女たちと目が合う。修二と満の母校の制服だ。満は顔を片手で覆ってから、ため息をついた。

 いたたまれなくなって踵を返す。


 楼門ろうもんをくぐる前に振り返ると、満は猫のように丸くなって日向ぼっこをしていた。





 神梅神社には長い石段がある。朝と夜で石段の数が変わるという噂があり、地元の小学生たちの間ではちょっとした心霊スポットになっている。石段の数が変わったことに気が付いたら、幽霊に突き落とされて死んでしまうそうだ。そんな怪談話は、修二が子どもの頃にはなかった。


 長い石段の中腹を左に曲がったところに、芳梅庵ほうばいあんと呼ばれる茶室はある。


 安価でお茶が楽しめるので、存在を知っている参拝客は立ち寄る。ただ宣伝をしないので、客足は少ない。誰かが来たら、手の空いた巫女がお茶をたてる。声を掛けても誰も出て来なかったり、待たされたりすることもある。それでも良い客だけが訪れる、穴場のような場所だ。商売っ気はないが、緑豊かな庭園の四季の移ろいは美しい。


 拝観終了時刻が迫っているので、もう客は居なかった。巫女が、お抹茶とお菓子を出してくれる。少し話した後、頭を下げて退室していった。一度社務所に戻ってから、退勤するのだろう。


 茶室の障子を開けると、冷たい風が流れ込んでくる。もう三月なのに、木々はまだ冬眠中のようだ。そういえば巫女たちが、今年は寒春かんしゅんらしい、と昼食の時間に話していた。


 お抹茶を飲んでから、茶室の掃除をしなければならない。体を回転させると、予想外の人物がそこにいた。炉の前の貴人きにんだたみに、あぐらをかいて座っている。


「お前、歩けたのか?」


 嫌味だ。修二の死球が頭に当たって軽度の麻痺は残ったが、満は歩ける。それどころか、日常生活を送る分にはそれほど支障はない。満は拝殿の廊下の隅に根を生やしていたが、とうとう動く気になったらしい。


「時間がないから来てやった」


 退勤時間が迫っていた。満は毎日、修二の機嫌を損ねてから帰る。満の唯一の仕事かもしれない。一日くらい見逃してくれても良いだろうに。


 しぶしぶ、満と向き合うように座る。怪我をさせてしまった罪悪感が修二を捕らえ、逃げることを許さない。仕事をしない人間にお菓子をくれてやるつもりはないので、ひちぎりを口に放り込んだ。平たいよもぎ餅に、桃色の餡が絞ってあった。


「もう投げる気はないのかよ」


 餅が、喉に詰まった。慌てて抹茶茶碗を手に取ろうとするが、両手が震えて上手く掴めない。宮司に、町内の草野球大会に出るよう説得しろとでも言われたのだろうか。満は呟く、


「情けない奴に成り下がったな」


 手のひらの震えが上腕にまで伝染してきた。両手の手のひらを組み、発作が収まるまでじっと耐えるしかない。


「うるせー。……野球の話はするなって、……何度も言っただろう!」


 豪快に咳込むと、詰まった餅はなんとか胃へと落ちて行く。


「草野球で投げるくらい出来るだろ。適当に投げてくればいいじゃないか」

「こんな手で投げられるわけがないだろうが。そこまで言うなら、お前がやれよ!」


 満は顔を曇らせて、首を横に振った。

 野球はもう出来ない、満は医師にそう告げられている。


「……修二、お前がそんなになったのは、俺のせいか?」

「そんなこと言ってねーよ」

「修二、良く聞け。聞いてくれ。あれは事故なんだよ」


 満の後ろの掛け軸には<和敬清寂わけいせいじゃく>と書いてあった。互いに心を開いて敬い合うという意味らしいが、満が野球の話を持ち出すうちは無理そうだ。


「……俺は、もう投げないって決めたんだ」

「出来るのにやらない奴を見ると、……腹が立つ」


 二本の線は平行面を突っ走り、決して交わることがない。数年前のあの日まで、こんなことはなかった。喧嘩をしてもどちらからともなく近づいて、気が付けばいつも一緒にキャッチボールをしていた。野球の切れ目が縁の切れ目だったのかもしれない。


「神道をろくに学んでもないのに、おやじに推薦書を発行してもらって。一番楽な方法で神主になりやがった」


 あの死球事件のあと、修二は仕事を辞めて実家に引きこもった。数か月もしないうちに、宮司と満里が訪ねてくる。満里がいつまでも泣くので、神梅神社の神主になることに決めたのだ。満に怪我をさせた罪滅ぼしの気持ちもあった。


「そりゃ偏見だ。大変だったぞ」

「神主なんて、ほんとはなりたくもなかっただろ?」

「そんなことない。……この仕事、気に入っているんだ」


 嘘ではない。朝は早いし掃除ばかりをさせられるが、不思議と辞めたいという気持ちになったことはなかった。満は腕を組んでから、じっと修二の目を見つめている。満の紫色の袴が眩しい。


「満里のことはどうなったんだ?」

「満里がろくに口利いてくれなくなったんだから、仕方ないじゃないか」

「それは、修二が悪い」

「なんでそうなるんだ? 巫女長の仕事でピリピリしているんだろ。満里が嫁に行き遅れても、俺のせいじゃないからな。大体、なんであんなに気性が荒くなったんだ?」


 襖の開く音がした。


「失礼ね。修二に結婚の心配なんかされたくないわ」

「満里を怒らせないでくれよ」


 そう言った満の口元は、への字に結ばれている。

 満里は、ずかずかと茶室に侵入してきた。


「満里、怒るなら満に言ってやってくれ。相変わらず、変なことばかり言うんだ」

「兄さんはいいの」

「修二、辞めておけ。満里に言っても無駄だ」


 満里の抜けるほど白い肌は、軽く紅潮していた。口紅を桃色に変えたらしい。よく似合っている。

 味方をするように、満里は満の隣に正座をした。


「仕事をしないのに、みんな満を庇うんだな。満を怪我させた腹いせに、俺を神梅神社で一生いじめ倒すつもりか」

「…………」

「修二、その辺にしとけよ」


 満の胸倉を掴んだ。野球を辞めて筋肉が落ちたのか、満は驚くほど軽い。されるがままになっている満を見ていたら、目の縁に水分が湧いてきた。殴り返して互角に喧嘩をする力もなくなったくせに、満は射抜くような目で見据えてくる。


「なんでもっと上手く……、あのボールをかわせなかったんだよ! 元はと言えば、全部お前が悪いんだぞ!」

「…………」

「なんでよ。どうして、どうしてこんなことになるのよ!」


 満里に肩を掴まれ、押し倒された。抹茶茶碗がひっくり返り、水色の袴に大きな染みが広がっていく。あの日以来、満里が修二の肩を持つことはなくなった。


「私たち三人、ずっと仲良しだったのに」

「修二! 満里を泣かすな」


 満が狼狽している。その視線の先で、涙が満里の頬を濡らしていた。得も言えぬ焦燥が、胸を掻きむしる。涙を拭ってやろうと差し伸べた指は、宙で静止した。いつからだろう。満里は修二の前で泣かなくなった。もう何年も触れていない肌は、修二の指先を拒むかもしれない。立ち直れなくなるのが怖くて、拳を握りしめてから膝の上に置いた。


「修二のバカ! 腰抜け!」


 袖を涙で濡らしながら、満里は茶室を出て行ってしまう。襖が力任せに閉められて、反動でまた少し開いた。追ってくるなということだろうか。満が、おもむろに立ち上がった。足を引きずりながら歩いている。痺れるのかもしれない。


「石段が危ないから、満はここにいろ」

「満里を、もっと大事にしてやってくれ」


 畳に崩れ落ちるように座り込んでから、満は頷いた。

 

 何かが引っかかった。

 テレビCMで流れた曲を知っているのだけどタイトルが思い出せないもどかしさや、朝ご飯の内容をすぐに思い出せない気持ち悪さに似ている。

 

 一段飛ばしながら、石段を駆け上がる。梅林の奥まったところで、緋袴ひばかまがちらついている。もう少し見つけやすい場所で泣いてくれたらよいのだが、満里は隠れて泣くので見つけるのに手間取る。


「満里」


 遠くから見ると分からなかったが、白梅がちらほらとほころんでいる。甘酸っぱい香りが、そこはかとなく漂っていた。


「満が心配してたぞ」

「辞めて」


 梅の木の根元にしゃがみこんでいる満里の肩を、両手で押さえた。ゆっくりと振り向かせると、満里の顔は苦痛に歪みぐしゃぐしゃに濡れている。修二が満と口喧嘩をするのは、いつものことだ。こんなに泣くことはないだろうに。


「もう私、耐えられない……」

「満里?」

「兄さんはね、兄さんは……、死んだのよ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る