このクソみたいな人生に一頭の的中も無し

中田もな

単勝 257.3倍

 1月下旬の千葉県船橋市は、雪の一つや二つは降っていいぐらいには寒かった。俺は使い古したジャンパーを羽織って、出走準備を待つ馬の様子を眺めている。


 曇り空の広がる中山競馬場。正月明けにも関わらず、客の興奮は冷めやらぬもいいところ。パチパチと両手を叩きながら、レースが始まるのを今か今かと待っている。15時45分発走のG3・京成杯は、冬風に晒されているにも関わらず、俺の予想を少し上回る客の入りとなった。


 勝率によって斤量が異なる別定戦。一番人気は3番・スカーレットランス。倍率は2.7倍。俺が買った馬券は馬単うまたん。1着と2着を順番通りに予想する。本当は3連単で勝負したかったが、いい加減金がなくなってきた。金が湯水のように湧き出たら、一生馬だけを当てて暮らしたい。ギャンブルには、泥沼みたいな中毒性がある。気づけば競馬のサイトを読み漁り、ネットでも現地でも馬券を買い漁り、次のレースに胸を躍らせてしまうのだ。


 このレースが外れたら、俺の手持ちは二十五円。安いがウリの駄菓子だって、もう少し値が張るものが多い。……こんな状況になってまで、なぜ俺は、青々とした競馬場の芝生を眺めているのだろうか。考えれば考えるほど、全てを消してやり直したくなる。ゲームのリセットのように、全て真っ白に。


 最後の馬がゲートに入り、出走の準備が整った。馬たちの耳が揺れ、騎手が呼吸を正し、次の瞬間、ゲートが一斉に開く――。


「ねぇ、おじさん。ちょっと、どいてくれない?」

 ――そんなレース開始の高揚感は、生意気な客に上着を引っ張られたことで、全て消し飛んでしまった。立ち見の観客席はほかにいくらでもあるくせに、彼は無理やり俺の隣にやって来て、ニコニコと愛想笑いを浮かべた。真っ白なボブヘアを整えながら、「あー、良かった、間に合って」などとしゃべっている。

「乗り換え先の電車が遅れててさぁー。ありえなくない? あの路線、遅延多すぎ!」

 ……中性的な容姿に、中性的なファッション。最近の若者は、こういうタイプが流行りなのだろうか。中年の俺には、よく分からない。

「おじさんは、やっぱりスカーレットランス? 今回の注目馬だし、確実に回収できそうだしね。まぁ、僕は違うと思うけど」

 初対面にも関わらず、彼はずけずけと質問を繰り出してくる。俺はなるべく角を立てないように、「はぁ、そうですか」とだけつぶやいた。どこからともなく上から目線な態度も、地味にイライラさせてくれる。


 レースは第1コーナーに差し掛かり、馬群が横並びに膨れている。先頭は予想通りのスカーレットランス。続く2番・マジシャンズドラゴンを軽く引き離し、力強い走りを見せている。後方の客は応援馬なのか、「おらぁー! グリーンファイブスター!」と叫んでいた。


「ねぇねぇ、僕の予想、教えてあげよっか? こう見えても僕、WIN5で連勝中なんだよね」

 WIN5とは、指定の5レース全ての1着馬を当てる馬券。払戻金は高額だが、下手に手を出してもまず当たらない。地面の端にかかる虹のように、掴めそうで掴めない。一番人気を5回指定しても、滅多に当たらないのだ。

「このレース、1着はレッドグルヒルだよ。2着がブルージョワイユで、3着がスカーレットランス。グルヒルは注目すらされてないから、きっとみんなびっくりするだろうね」

 ……馬群の後続につけたレッドグルヒルが、最初にゴールインするだと? 俺が思わず鼻で笑うと、彼はいかにも面白くなさそうな顔をした。

「なーに、その態度。ロクに勝てない負け犬のくせに。僕のこと、馬鹿にしないでよね」

 チェック柄のマフラーをいじりながら、彼はなめ腐った表情をする。俺は何とか怒りを抑え、レースを見ることに集中した。……確かに、レッドグルヒルは追い上げてはいるが、それでもスカーレットランスにはほど遠い。ブルージョワイユなんて、最後尾争いの真っ最中じゃないか。


「僕はね、『運』に囁きかけることができるんだよ。まるで神さまのお告げのように、そっと、優しくね」

 無視を決め込んだ俺をさらに無視して、彼はニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。その動作は完全に、俺のことを見下していた。

「伝説上の御者は、馬の耳に囁きかけるだけで、馬を思いのままに操ることができる。僕だって、彼と同じ。運を味方にして、運を操ることができるんだ」


 ――次の瞬間、観客席の一部が咆哮した。外側を走っていたレッドグルヒルが、直線で一気に追い上げたのだ。コーナーを終え、残りは直線250m。2着争いには、下位であったはずのブルージョワイユも加わっている。

「ほら、見なよ。レッドグルヒルは1着圏内。倍率もすごく高かったし、これは大儲けできちゃうかもね」

 ……俺の馬券は、スカーレットランスを指定している。やつが1位にならなければ、2位の馬が何であろうと外れだ。

「直線、残り100……。あはははっ、やっぱり追い抜いたぁ!」

 嘘だ、ありえない。レッドグルヒルは、完全にノーマーク。今まで何年も競馬をやってきたが、それでもやつが1着なのは、どう考えてもありえない……。

「ねぇ、おじさん! 今、どんな気持ち? みんな大好き一番人気が、ブルージョワイユにも抜かれちゃったよ!」

 首をぐっと掴まれたような、苦しい気分になる。ありえない、信じられない。こんなことになるなんて、考えたくもなかった――。


 ――先頭を走るレッドグルヒルが、颯爽とゴールインを決めた。若い騎手がガッツポーズをする姿を、俺はただただ見つめることしかできない。

「おじさん、残念だったね。まぁ、仕方ないって。無様な負け犬の、あるべき姿だと思うよ」

 ――何故だ! 何故、ゴール手前で失速したんだ! スカーレットランスに賭けときゃ安泰だって、あれほど言われてたじゃねぇか!

「あはは、やったー! これで僕、WIN5が大当たりだぁ! ……なーんて、当たり前だけどね。あははははっ!」

 白髪の野郎は満面の笑みを浮かべながら、至極冷め切った目で俺のことを見下した。その真っ黒な瞳は、全ての運を総なめしたかのような、そんな色に染まっていた。

「あーあ、やっぱり面白いなぁ! 負け犬たちの消沈する顔は、何度見ても面白い!」

 ……まるで反吐の出るような、嘲笑にまみれたセリフ。だが俺は、こんなガキみたいなやつにも言い返せずに、静かに馬券を握りしめた。――2022年、京成杯。1着、レッドグルヒル。2着、ブルージョワイユ。そして3着は、倍率2.7倍のスカーレットランスだった。

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